【アドベント第3週 主日礼拝・巻頭言】 2008年12月14日
『神の愛はすべての人に』
山岸 明牧師
当時、重い皮膚病(口語訳、らい病)を患っている人は、汚れた者として人々から見放され、拒絶され、人格も認められず、人々から隔離された生活をさせられていました。そんな彼らのもとにイエス様が来られました。彼らは声を張り上げて、「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。13 そして憐れみを叫ぶ全員をイエス様は癒されました。神の愛はすべての人に平等に注がれるのです。
初めに、癒された十人のうち、イエス様のもとに戻って感謝したのは一人だけで、残りの九人は戻って来ませんでした。何故でしょう。感謝するために戻ってきた一人はサマリヤ人で、戻って来なかった9人はユダヤ人です。ユダヤ人から見たらサマリヤ人は真実なる神に従わず、律法も守らない者で大嫌で軽蔑すべき存在でした。(サマリヤ人との交際は一切禁止されていた)癒されたユダヤ人がイエス様のもとに戻らなかったのは、自分たちは神から選ばれた民で、特別な民、神様の祝福を受けるに相応しい者、だから癒されても、それは当たり前で当然の事と思っていたのでしょう。
次に、サマリヤ人は、自分は神から祝福を受けられるような者ではなく、そんな価値もないと思っていました。しかし、イエス様はそんな汚れた私のものに来てくださり、憐れみを持って愛してくださった。その恵を体験したからこそ、彼は感謝と賛美をするために、イエス様のもとに戻って来たのです。しかし、イエス様は戻らなかった9人に対して、そのような者たちであっても放って置こうとは思われませんでした。「ほかの9人はどこにいるのか」と探し続けるのです。「あなたがたの中に100匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探しまわらないだろうか」15:4 とあるように、神は今も「あなたはどこにいるのか」と探しておられるのです。
最後に、神の恵は、わたしたちが何かをしたから、その報いとして与えられるものではありません。神様はただ一方的に、私たちを愛し、祝福したいと願って、イエス様を私たちのもとに遣わしてくださったのです。この愛に条件は何もありません。私たちが存在するだけで神様から愛される価値があるのです。それだけで十分なのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
【アドベント第3週 主日礼拝・メッセージ】 2008年12月14日
『神の愛はすべての人に』
山岸 明牧師
当時、重い皮膚病を患っている人は、「汚れた者」というレッテルを貼られ、人々から見放され、拒絶され、阻害され、隔離されたところで隠れるように暮らしていました。また、彼らが外出する時には「私は汚れた者です」と叫んで周りの人に知らせなければならない律法の掟があったのです。彼らには夢や希望などあるはずがありません。そんな彼らの元に多くの病人を癒し、奇跡を行っているイエス様がこちらの方に向かっている知らせが届きました。彼らが初めて持つ希望、光、まさに福音(良き知らせ)が届いたのです。さて、イエス様が来られたと聞いて、彼らは喜んで出迎えました。しかし、律法によって人々に近づく事が禁じられていたので「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った」13 わたしたちを憐れんで下さいとイエス様に叫んだのです。彼らは今まで「わたしは汚れた者」としか叫ぶ事が出来ませんでした。いつも自分の姿を見て、自分を責め、自分を裁き、自分は駄目だ、そのような苦しみと孤独の中で絶望していたのです。しかし、その叫びが今、期待と希望に満ちてイエス様と変わったのです。私たちも日頃、悩み苦しんで心を痛めます。そのような試練の中にあるとき、皆さんは何と叫びますか?どんな叫びが心の中から出てきますか。つぶやきでしょうか、愚痴でしょうか、嘆き、どうしてこうなるのか、何で私だけが、あの人はこうだ、私は駄目だ、いろいろな事を叫ぶと思います。その叫びの中に私たちは期待と希望を持ってイエス様という叫びが入っているでしょうか?
さて、イエス様は叫ぶ彼らに言いました「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」14 病気が治ったかどうか、それを判断し証明できる権利を持っていたのは祭司だけです。彼らはイエス様に言われて祭司のもとに体を見せに行きました。しかし、聖書には「彼らは祭司のもとに行く途中、清くされた」とあります。故に、祭司のもとに向かった時にはまだ清くされてはいなかったのです。不思議なことに、まだ清くされていないのに祭司のところに向かったのです。今まで社会に脅えながら生きていた彼らが、祭司の前に出るという不安や恐怖を乗り越えて歩めたのはなぜでしょうか?今まで彼らのもとに近づく人は誰もいませんでした。自分をしっかりと見つめてくれる人もいませんでした。そんな「汚れた自分」のもとに来てくださった。イエス様と叫んで、それに応えてくれた。人間として見てくださった。その、イエス様の愛に触れ、その愛を信じて一歩を踏み出したのです。本来は完全に治ったら祭司のもとに見せに行こう、治ったらイエス様を信じようと考えるのが社会の常識です。しかし信仰は信じる事、信頼する事から始まるのです。
イエス様は村から村へ、町から町へ、行く先々で多くの人を癒されました。もし、癒しをする時にいろいろ条件があったらどうでしょう。あなたは今まで何をやってきたか、どのような生活をしてきたか、今、何をしているか、それによって、あなたは救われるに相応しい、あなたは救われないとなります。イエス様の愛に条件はありません。本当に無条件で、ありのままの姿で招いて、受け入れてくださっています。イエス様の「愛はすべてに平等」であります。さて、10人全ての人が癒されました。しかし、感謝を捧げるためにイエス様の元に戻って来たのは一人だけでありました。イエス様は言いました。「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか」」17、18 そして「イエス様のもとに戻って、イエス様の足元にひれ伏し感謝したのは、サマリヤ人だった」16とあります。残りの9人はユダヤ人です。サマリヤ人一人が戻り、ユダヤ人9人が戻らなかったのです。それは、ユダヤ人は神様から選ばれた民と言われ、神の祝福を受けるに値する民、だから神様から癒されて当然、祝福されて当たり前、神の恵を当然のごとく頂けると思っていました。しかし、イエス様のもとに戻ってきたサマリヤ人は、ユダヤ人から見れば、真実なる神に従わない、律法にも従わない、汚れた人々として軽視し差別していた。ユダヤ人から見れば、サマリア人に神の恵みなどあるはずがない、あるのは自分たちだけで、異邦人の彼らには裁きがくだっても恵など絶対にないと軽視していたのです。神様の祝福、恵はとは、私は神様から祝福を受けるような者でもないのに、受ける価値もないのに、イエス様は私を愛してくださったと知ることです。彼はその恵を体験したのです。彼はその嬉さから感謝を捧げるためにイエス様の元に戻ってきたのです。他の9人には病はい癒された。しかし、それは本当の恵とはならなかったのです。恵とは自分はそれを受けるのに相応しくない、自分はそんな価値ある者ではない、心からそう思っている者です。
神の憐れみは戻らなかった9人に対しても注がれました。感謝もせず戻らなかった者たちの事は捨てておこうとは思いませんでした。そればかりか「ほかの9人はどこにいるのか」と探し続けるのです「あなたがたの中に100匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探しまわらないだろうか」15:4、私たちは、この神の恵に心をとめている時、私たちの中から感謝が絶える事はありません。もし、私たちの人生の中で感謝することが無くなってきたら、感謝することが少なくなってきたら、それは神の恵みから心がそれている時であり、神の恵みが分からなくなった時に、私たちは感謝する心がなくなるのです。神の恵は、わたしたちが何かをしたから、その報いとして与えられるものではありません。神様はただただ一方的に、私たちを愛し、祝福したいと願って、イエス様を遣わしてくださった。この愛に条件は何一つありません。私たちが、ただ存在するだけで神様から愛される価値があるのです。それだけで十分なのです。神様は今も「あなたはどこにいるのか」とイエス様のもとに戻る者を探しておられるのです。
戻る |