【アドベント第4週 主日礼拝・巻頭言】 2008年12月21日
『宝の箱』
山岸 明牧師
占星術の学者たちが東の方から星に導かれてベツレヘムに来て、幼子のいる場所を見つけました。「家に入ってみると幼子が母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」マタイ2:11
今日、私たち礼拝に導かれました。それぞれが色々な思いを持ってこの場所に集っている事と思います。皆さんは今日、何を携えてこの場に集まって来たのでしょうか。イエス様を愛する思いから感謝と賛美をしたいとの思いを携えて来られた方、また、日常の中でやり切れない思いや不満、また将来の不安や心配事などを携えて来られた方もあるでしょう。
また、星に導かれ、イエス様の元についた学者たちも、動物の餌を入れる飼い葉の中の救い主を見て不安になったと思います。臭い馬小屋の中に神の子が生まれるなどと誰も想像できない、それが神の子だと言われても信じないのは当然だと思います。その子に自分を委ねられるでしょうか?しかし、学者たちはイエス様の前で「宝の箱」を開け中の物を献げました。
さて、皆さんの宝の箱には何が入っていますか?宝物とは金銀宝石だけではありません。私たちがつかんで決して離さないもの、それが宝物です。心の奥底にしまって放さない「怒り」や「恨み」、「憎しみ」、また「悲しみや寂しさ」、「不安や弱さ」もまた宝物として心の中に収めています。宝物の中には必ずしも良いものばかりではないのです。占星術の学者たちが宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げたように、私たちの心の箱を開けて全ての思いをイエス様の前に差し出す事が大切です。イエス様は私たちの捧げ物を喜んで受け取って下さります。
私たちは今まで常に自分が主役で生きてきました。しかし、これから主役の座を自分からイエス様に譲るわけです。恐怖を覚え不安になるのも当然です。イエス様は神の子として大きなお屋敷の中で生まれたのではなく、町の宿屋から締め出された弱さの中にあるお姿です。求めるものは誰でも合うことが出来ます。イエス様に合うのに特別な資格はいりません。私たち一人一人の近くにおられるのです。「主が知らせて下さった出来事を見ようではないか」今、私たちは、その出来事を見ているのです。
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【アドベント第4週 主日礼拝・メッセージ】 2008年12月21日
『宝の箱』
山岸 明牧師
聖書にはヨセフはマリアの婚約者であり「正しい人であった」と記されています。彼には野望や野心などなく、まじめなヨセフはマリアと結婚し平凡な結婚生活し、波乱もなく静かな生活をしたかったかも知れません。そんなヨセフに突然マリアが聖霊によって男の子を身ごもったと聞きます。ヨセフは心が痛んだと思います。本来ならマリアは姦淫の罪を犯したと疑われても仕方がない、当時の姦淫の罪は「石で打ち殺さなければならない」申命記22:23 とされているほど重い罪です。しかしヨセフは大きな愛情でマリアを受け入れました。そして子供が生まれると、今度は博士たちが来たり、エジプトへ逃げなさいと言われたりした。また神が良いと言うまでそこに留まっていなさいと言われました。正直、誰も知り合いがいないエジプトへ行けと言われ、産後まもない乳飲み子を連れての旅には大きな不安があったと思います。ヨセフ自身は喜ばしいことも、楽しいこともなく、ただ、わずらわしい事ばかりでした。私たちも平穏な生活を望むように、きっとヨセフもそうであったでしょう。しかし、ここでヨセフの名前がぷっつりと切れてしまします。実はここからの主役はヨセフでもマリアでもなくイエス・キリストに変わるのです。
さて、マタイ福音書に記されている、占星術の学者たちの話です。遠くの東の方から星に導かれてベツレヘムに行き、幼子のいる場所を見つけ出しました。「家に入ってみると幼子が母マリアとともにおられた。そこで学者たちは、ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げました。」では、皆さんの「宝の箱」には何が入っていますか?実は宝物とは金銀宝石だけではないのです。私たちがつかんでいて決して離さないもの、それが宝物なのです。心の奥底にしまって放さない「怒り」や「恨み」、「憎しみ」、また「悲しみや寂しさ」、「不安や弱さ」も宝物として心の中に収めているのです。ですから宝物の中には必ずしも良いものばかりではないのです。占星術の学者たちが宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げたように、今、私たちも心の箱を開けて全ての思いをイエス様の前に差し出すことが大切です。それが差し出すに値しない汚れたものであっても、イエス様の前に差し出すならイエス様は私たちの捧げ物を喜んで受け取って下さるのです。
また星に導かれイエス様の元についた学者たちも動物の餌を入れる飼い葉の中の救い主を見て不安になったと思います。臭い馬小屋の中に神の子が生まれるなどと誰も想像しません。それが神の子だと言われても信じないのは当然だと思います。汚い馬小屋の中にいる、その幼子に自分を委ねられるでしょうか?この方に自分を委ねて本当に大丈夫なの、また恐怖を覚え不安になるのも当然であります。しかし、私たちは今まで常に自分が主役で生きてきましたが、これからは主役の座を自分からイエス様に譲るわけです。実はここに本当の自由があるのです。イエス様は神の子として大きなお屋敷の中で生まれたのではありません。町の宿屋から締め出された弱さの中に身を置かれたのです。故に、求めるものは誰でも、いつでも合うことが出来るのです。イエス様に合うのに特別な資格はいりません。私たち一人一人の近くにおられるのです。「主が知らせて下さった出来事を見ようではないか。」、私たちは今、その出来事を見ているのです。
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