【主日礼拝・巻頭言】                                        2009年1月11日 

 『私につながっていなさい』  

 ヨハネによる福音書15:1−15

 

山岸 明牧師

「イエス様は十字架を前にして、イエス様を失ったあと弟子たちが信仰生 活を続けていくために何が必要であるかを語られました。「わたしにはまことのぶどうの木」1、である。「わたしにつながっていなさい」4、私たちがイエス 様とつながるために大切なことが三つあります。

  1. 礼拝を守ること

私たちは毎週の主の日の礼拝を通してイエス様につながります。またプログラムの一つ一つに意味があり、賛美も献金も全てが大切です。特に礼拝の中で 語られる御言葉は、心を清め、傷ついた心を癒し、励まし、力を与えて下さります。こうして私たちは整えられ成長し世に遣わされるのです。

  1. 聖書を読み、祈ること

聖書を読むことは神様を知ることです。1日1章でも、5分でも良いのです。毎日の日課とすることです。そして祈ること、出来れば朝、昼、夜、感謝の 祈りから始めましょう。そして、自分の願いごとだけではなく、家族、隣人のためにも、また祈りは一方通行であってはいけません。祈りは神様との対話です。 神様の御心を聴くことが重要です。

  1. 御言葉の実行

私たちは日曜日だけのクリスチャンであってはいけません。24時間クリスチャンです。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこ と、見たことを実行しなさい、そうすれば平和の神はあなたがたと共におられます」フィリピ4:9 自分の生活を通して神を証しするのです。こうして私たち がイエス様にしっかりとつながるとき、実生活の中で豊かな実を結ぶのです。それは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和」です。ガラテヤ5: 22.

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                                                         2009年1月11日 

 『私につながっていなさい』  

 ヨハネによる福音書15:1−15

 

 私たちの人生は何につながるかによって大きく変わります。イエス様は譬えをもって、たくさんのぶどうの木がある中で「わたしがまことのぶどうの木」であると仰せられました。この社会にも、これに期待を寄せ、これにつながっていたら大丈夫だろう、と思えるものはたくさんあります。例えば財産、地位、名誉、経歴、仕事、宗教、いろいろありますが、あなたの心は一体どこにつながっていますか?それとも、糸の切れた凧のように何ものにもつながらず、自由奔放に生きているのでしょうか?人は何につながるかによって人生の中で結ぶ実が違ってくるのです。イエス様は「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことが出来ない」と仰せられました。では、その結ぶ実とは何でしょうか? 例えば、この社会に希望を抱き、思いと期待を寄せ、それに従うとき、当然この社会から知恵と栄養をもらって成長し実を結びます。私たちはあまり感じませんが、聖書はこの世から得た栄養で結んだ実はどういうものであるか、その事実を私たちに突きつけております。それは「敵意、争い、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」ガラテヤ5:20 これが世から栄養をもらって実を結ぶ結果であるのです。こういったものが渦巻く社会に私たちは身を置いているわけです。

 このような社会の中で、私たちはどうのようにイエス様につながっていたら良いのでしょうか?3つあります。1、毎週の礼拝を守ること。2、聖書を読み祈ること、3、御言葉を実行することです。第一の礼拝を守る。私たちは毎週の礼拝を通して神につながります。礼拝の中で行われる一つ一つに意味があり、賛美も、献金も、どれも大切なものです。特にメッセージ(御言葉)は「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言の内に命があった。」ヨハネ1と言われているように、命である御言葉は私たちの心の汚れを清め、傷ついた心を癒し、励まし、力を与えて下さります。こうして私たちは整えられ、成長していきます。第二の聖書を読み、祈ること。聖書も毎日1章で良いのです。その日必要な命の御言葉に出会います。そして祈ること。できれば朝、昼、夜、また祈りは自分の願いだけを言う(一方通行)であってはいけません。神の御心も聞くことが大切です。祈りは対話ですから、聞く事が大切です。神は私に一体何を求めておられるのか?そして確信を持って祈りましょう。第三の御言葉の実行。自分の全生活を通して神を証ししていきます。私たちは日曜日だけのキリスト者ではなく24時間クリスチャンなのです。聞いたこと、見たことを現実の社会で生かしていくのです。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい、そうすれば平和の神はあなたがたと共におられます」フィリピ4:9と仰せられている通りです。

 世の現実は人を蹴落としてでも自分が出世しようとします。自分のことで精一杯なのに他人まで愛していられるかという社会です。「わたしはあなたがたを遣わす、それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」マタイ10:16 私たちは生半可につかまっていたら、たちどころに流されてしまうのです。ですからしっかりと掴まっていることです。そうすば、私たちの実生活の中において「豊かな実を結ぶ」と言います。それは一体どんな実か「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和」であります。ガラテヤ5:22 自分でその実を結ぶのではなく、主がその実を結ばせてくださるのです。「何があってもイエス様に従います」と言っていた弟子たちでしたが、ある者は銀貨30枚でイエス様を売り渡し、ある者は、あなたはイエスの仲間だろうと言われると、そんな人は知らないと否定し、イエス様が十字架に向われたとき、弟子のほとんどが逃げました。そのような弟子たちでしたが、「しばらくすると世はわたしを見なくなるが、わたしはあなたがたのところに戻ってくる」ヨハネ14:18 と仰せられ、戻ってきた聖霊としっかりとつながりました。すると実生活の中で素晴らしい実を結んでいきました。イエス様を宣べ伝えたという理由で捕らわれ鞭打たれ牢に投げ込まれま弟子が、真夜中に喜び勇んで賛美の歌を歌い、同じように捕らわれている人々を励ましたと使徒行伝に記されている。また、キリスト者で初めて殉教したと言われるステファノは石を投げつかられて殺されてしまいました。そのときに何て祈ったか記されています。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」使徒7:60。自分に石を投げ殺そうとしている人々を赦してくださいと執り成しの祈りをしたのです。

 あのイエス様が十字架にかけられたとき「父よ、彼らの罪を赦してください。彼らは何をしているのか分からないのです」あの祈りと同じです。何で彼らはそんなことが言えたのですか?しっかりと十字架につながっていたからです。イエス様が仰せられた「豊かな実」とは何を持ってしても取り去ることのできない真実な実なのです。「豊かな実」とはイエス様自身です。それは「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和」です。それは状況によって変わるものではりません。状況によっては喜ぶ、状況が悪ければ喜べない、これは世から来る喜びです。イエス様からくる喜びはどんな状況の中にあっても決して変わることはありません。あの弟子たちに起こった事は私たちにも起こるのです「わたしに繋がっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたと繋がっていよう。枝がぶどうの木に繋がっていなければ、自分だけでは実を結ぶことが出来ないように、あなたがたもわたしに繋がっていなければ実を結ぶことが出来ない」。イエス様の十字架につながることは、あの流された血が私たちの中にも流れるのです。感謝

 

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