【主日礼拝・要 旨】                                        2009年5月3日 

 『奪う愛、手放す愛』  

 列王記上 3:16-28

山岸 明牧師

 
 ソロモンが父であるダビデ王からイスラエルを引き継いで3代目の王となったとき、主はソロモンの枕元に立ち、「何事でも願うがよい、あなたに与えよう」と言われました。そこで、ソロモン王が願ったものは善と悪を判断することがでる知恵でした。ある時、ソロモン王の前に二人の女性が訴えでました。この女性たちは同じ家に住み、3日違いで子供を生みました。一人の女性が朝起きて赤ん坊に乳を飲ませようとしたところ子供が死んでいました。しかし、よく見ると、その子は我が子ではなく、隣の女性の横に寝ている子が我が子であると主張しました。すると、もう一人の女性も、いいえ、生きている子が私の子であると主張し、互いに自分の子であると言うのです。


 そこで二人の女性は王に訴えでました。当時、王に直接訴え出ることは死に値するようなことであり、二人の女性は命をかけて訴え出たのです。そこまで彼女たちを動かしたものは一体何か?それは、この子を決して手放す事はできない、この子を失うくらいなら自分は死んでもかまわない、愛する存在を追い求め手に入れたいと願う、追い求める愛なのです。


 そんな彼女たちの訴えに対してソロモン王の下した判決は、「生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ」26でした。その判決に一人の女性は「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言った。もう一人の女性は「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」26と言いました。


 追い求める愛だけでしたら二人の女性は同じでした。しかし、もう一つの事において違いがでました。それは手放す愛です。この子を生きたままあげてくださいと言った女性、もし自分の権利を主張し続けたら、愛する子は殺されてしまう、この子が生きる為には自分の主張を放棄し、子を手放すしかなかった。しかし、ここに本当の愛があったのです。(手放すとは無関心ではなく、相手の人格、生き方を尊重することです)

  
 ソロモンは神からの知恵によって、どちらが本当の母親か、本当の愛を見分けることができたのです。イエス様も私たちを生かすために、自らの思いを捨て十字架についてくださいました。そして、神は今でも私たち一人一人を探し求めています。私たちと共に歩むため、いつまでも、どこまでも、見つかるまで探し続けるのです。この神の知恵である愛をしっかりと受け止め、心から愛することができますように。


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