【主日礼拝・要 旨】                                        2009年7月26日 

 『信仰と現実』 

ヨブ記2章7-10節 

 「なぜ」の中にはいくつかの「なぜ」があります。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」、「なぜ、このようになったのか」、この答えには誰も答えてはくれません。人間の知恵では答えようがないのです。

 ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブ1:1 ヨブは東の国一番の富豪、7人の息子と3人の娘も与えられていた。信仰もあり、世の財産もたくさんあり、家族にも恵まれ、世の幸せと思える事を全て得ていました。ところが突然、全ての財産と愛する子供たちを失い自らも病に苦しみます。しかしヨブは「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」1:10 

 しかし、ヨブの苦しみはここから始まるのです。ヨブは信仰による生き方と現実の苦しみの狭間で苦悩します。ヨブは熱心に神様を信じていただけに、納得のいかないまま神様に対する不信が募ります。その不信から、神を恨み、人を恨み、自分を恨みます。「私の生まれた日は消えうせよ」3:3 「なぜ、母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか」3:11と言って、命があることさえ恨みました。

 ヨブの嘆きに対して、神は自然の中の出来事を通して答え回復へと向かわせます。ヨブにとっては長い、長い、試練の時でした。何度ももう駄目だと言って諦めかけました。この試練に何の意味があったのかも分かりませんでした。「わたしのしていることは、今あなたにはわかるまいが、後で、分かるようになる」ヨハネ13:6 

 私たちも、信仰と現実の狭間で悩み苦しむことがあります。これは試練であると思いつつも、なぜ今なのか、なぜ私なのか、なぜこのようになったのか、と問いたくなるようなことがあります。しかし、「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると主は言われる」イザヤ55:8 主の約束を信じましょう。

 

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