【主日礼拝・要 旨】                                        2009年8月16日 

 『なすべき礼拝』 

ローマの信徒への手紙12章1-2節 

  

  昔から人間は生きた動物を殺して神に「生け贄」として献げ物をしたり、収穫物を感謝のしるしとして献げてきました。なぜ、そのような事をするのかと言うと、その「供え物」をする事によって神への感謝を表したり、神様とのつながりを維持するためです。また、神の怒りを静めるために行ったり、赦しや罪ほろぼしのために行ってきました。しかし、今はイエス様が私たちの罪の赦しの為の「供え物」として自らを献げてくださったので、昔のように何回も動物を殺して神の前に献げなくても良くなりました。後は私たちが神様「ごめんなさい」と言って、神の元へ帰えれば神さまと正しい関係が回復するのです。これが福音、グッドニュースなのです。

  しかし、パウロは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と言われました。何か話が矛盾しているように思えますが、ここで言われる「献げる」とは「ある人のそばに置く」という意味があります。私たちは献金のとき「あなたの御用のために用いてください」と祈ります。私の手元にあるものを、神様の手元に置いて神様どうぞ使って下さいと言います。「ある人のそばに置く」とは、「神様の元に置く」という事なのです。 礼拝、祈祷会への出席者が増し加えられますように。礼拝、祈祷会への出席者が増し加えられますように。同じように、自分の体は自分のもの、今まで自分の思うように使って来ました。いつも自分の側に置いていたこの体を献げるとは、それは、神様の側に置くということです。自分の体という中には当然に心も含まれます。ですから心も体も全身全霊をもって神様の側に置くことなのです。これは毎日の生活の中で、働くときも、食べるときも、旅行に行くときも、日常生活すべてにおいて神様の側に置くこと、それが本当の礼拝なのです。

 「だから、あなたがたは食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を表すためにしなさい」((一)コリント10:31) 日曜日だけのクリスチャンであってはなりません。日曜日だけの礼拝であってはなりません。「自分の体を神に献げる」とは、神様の側に身を置き、生活の中で神のご栄光を表していく事なのです。
   

 

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