【主日礼拝 メッセージ】 2009年10月 4日
『迷信から来る混乱』
イエス様のもとに何人かの人々が来て悪い知らせを告げました。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」1これはエルサレム神殿に礼拝に来ていた人たちをポンテオ・ピラトが殺してしまったのです。その知らせを受けたイエス様は、その原因を聞く事なく、逆に彼らに質問されました。「そのガリラヤ人たちが、そのような災難、事件に巻き込まれたのは、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」2「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも罪深い者だと思うのか」4
イエス様はなぜ、このような質問をされたのでしょうか、それは当時、多くの人々が身の回りに悪い事が起きると、その原因は罪から来ていると信じていたからです。また弟子たちがイエス様に聞きました「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか、本人ですか、それとも両親ですか」ヨハネ9 まさに因果応報(原因と結果)に悩まされていたのです。さて、ここではっきりさせておかなければならない事があります。それは、罪と災難は無関係であると言う事です。イエス様は「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」5と仰せられました。それは迷信に心を奪われることなく、あなたがたの見るべきところ、心を向けるところは十字架に付き復活してくださったイエス様であります。
しかし、何もしないで神に心が向かって自然に流されて行く事は決してありません。私たちが世に流されずに主を仰ぎ見て行くには努力も必要です。私たち自身が神に近づく為には心からそれを願い、時間を割き、エネルギーを注ぎ込まなければなりません。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」ヤコブ4:8その事を忘れて、世に流されていながら、それを平安と勘違いしたり、それを自由とはきちがえてしまう、また迷信に心を奪われながら、それを信仰と間違える。そして、神を無視した生活をしながら解放された生活と呼んでしまうのです。「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」コロサイ2:8
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