【主日礼拝 メッセージ】                                        2010年1月 24日 

『イエス依存症』 

ヨハネの黙示録3章 14-22節

    

 ラオディキアの町は経済的に豊かで物質的にも恵まれていました。彼らはお金もあり、楽しみもありました。だから自分には神など必要ない、救いなど関係な い、町全体がそのような状態でした。何か今の日本と重なって見えるところがあります。必要なものは何でも手に入り、大きな贅沢はできなくても、ある程度の 守られた生活ができています。また、楽しみも沢山あり、だから自分には救いなど必要なく、神に頼るほど弱くないと言います。

 そんな思いはラオディキアの教会も例外ではありませんでした。教会に集う人たちの信仰は「熱くも冷たくもなく」(15) 「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」(17)と言っていました。そんな彼らの信仰を主は「なまぬるい」と忠告されたのです。「な まぬるい」とは、信仰がまるで他人ごとのようであったり、無関心に近い状態のことです。無関心はキリストを外へ締め出してしまうのです。主は仰せられます 「悔い改めよ」あなたの心をしっかりキリストに向けよと。

 ヨハネの黙示録は7つの教会に手紙が出されています。そのうちのフィラデルフィアの教会だけは責められることがありませんでした。それは「あなたは力が 弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(8)とあります。それは、どんな時にも、どんな状態の中においてもキリストを信 じ、キリストに拠り頼み、キリストに依存していたのです。

 「自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もない」と言っているラオディキアの教会に比べ、フィラデルフィアの教会は、弱く貧しい人たちの集まりで したが、しかし、神はフィラデルフィアの教会の人たちの信仰を祝福され、一方のラオディキアの教会の人々に対しては、なまぬるいので「あなたを口から吐き 出そう」(16)と言われたのです。あなたの信仰はどうですか?

 
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