【主日礼拝 メッセージ】 2010年4月18日
パウロはギリシャのアテネで哲学者たちとキリストについて議論をしました。その結果、キリストの十字架と復活は、笑いごとであり愚かな話しでした。しかし、これこそ神の知恵にかなった事でした。「世は自分の知恵で神を知る事ができません。そこで、神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(1:21)
神の知恵とは何でしょう。「知恵」は「知識」と違います。知恵は字のごとく「恵みを知る」という事です。聖書はこのように仰せられています。「キリストは、わたしたちにとって神の知恵となる」(1:30)知恵とは恵みを知る事で、それはキリストを知る事です。また「知る」とは、知的に分かるという意味ではなく、人格的に深く相手を知る事で、外側からの観察ではなく、その内側に入り、相手と深く関わり合っていく事なのです。故に「キリストの事を知っている」ではなく「キリストを知っている」となることです。
パウロは大きな決断をしました。それは「キリスト以外、何も知るまいと心に決めた」(2:2)だが、決心をした時に、恐れと不安に取り付かれたと言った。私たちも神は全能であることは知識では分かっていますが、でも、どこかに全てを委ねることが出来ない何か不安があるのです。そこで私たちは、この世にも頼りながら、それでも足りないところは神に補ってもらおうという信仰になってしまうのです。これでは、神は全能でも何でもありません。また、十字架はただのアクセサリーになってしまうのです。
私たちはキリストの証人です。証人は真実を語らなければなりません。私たちもキリストを証ししようとするとき恐れや不安を抱きます。しかし、それ以上に聖霊の力を受け、大胆にキリストを証しすることができるのです。それは「巧みな知恵の言葉によらないで、聖霊と力との証明によった」となるのです。どれだけお金を貯めても、魂の平安はなかった。地位や名誉を得ても、心に安らぎはなかった。これが人々の心の叫びです。人々は魂の平安を求めて十字架を求めています。私たち先に召されている者として、この素晴らしい恵みを人々に伝える証し人でなければなりません。
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