【主日礼拝 メッセージ 】                                                   2010年9月5日 

『神がいるなら・・・なぜ』

コリントの信徒への手紙(二)1章8-11節

山岸 明牧師 

 
 私たちはときに苦しみや、痛みを負うことがあります。自分の責任において、そのような重荷を負うこともありますし、また、自分にはまったく責任がないのに苦難を背負うこともあります。世の中には「なぜ」と問わなければならない出来事が次々に起こり、自分を痛みへと追いやります。そんなとき、私の人生こんなはずではなかったと嘆くこともあります。また「神がいるなら・・・なぜ」と思います。どうして、神は私たちの痛みをなぜ黙認しておられるのでしょうか?

1.  神は私たちに「選択する」自由を与えられている。
私たちは善い事も悪い事も、正しい事も間違っている事も、祝福も呪いも、神を受け入れる事も拒絶する事も、どちらも選ぶ自由が与えられている、私たちの選択次第なのです。何故でしょう。神が求めておられるのはロボットでも操り人形でもないからです。人間が自ら進んで神を愛するように願われたのです。

2.痛みを通して神に頼ることを教えられる。
「打って傷を与えれば、悪をたしなめる。腹の隅々にとどくように打て」(箴言20:30)とありますが、私たちが変わるには、ときに痛みを伴う経験が必要なときもあります。パウロは「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(1:8-9) パウロは自分が無力であるという事をいやというほど思い知らされました。しかし、それで良かったというのです。そのような状況の中ですべてを神に委ねるようになったからです。

3.  神はその痛みを用いられる。
「神は、あらゆる苦難に際して、わたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(1:4) 神は私たちを回復させ、他の人たちのために用いたいと願っておられます。しかし、神に用いていただくには自分の痛みに対して正直にならなければなりません。もし、その痛みを自分の心の中にしまい込んでおくなら、その痛みの経験は無駄になってしまうのです。


 
福音メッセージ一覧
戻る
                  

福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む