【主日礼拝 ・特別伝道礼拝メッセージ 】 2010年9月12日
今日の礼拝の中では「律法と福音」の関係を考えてみます。P.トウルニエの「人生の四季」(ヨルダン社)という本の中に「キリスト教は人間を抑圧する ものか、解放するものか」という注目すべき項目があって、その中で彼はキリスト教を道徳主義と捉える人々がいることに注意を喚起しています。まじめで禁止事項をよく守り、あらゆる楽しみを断念しヘトヘトに自分を疲れさせる・・・つまり<自由性の拘束>です。こうあらねばならない、こうしなければならない、とその律法を自分に課す生き方です。(参考:ねば志向)Must、Shouldの世界です。
これは「うつ病親和性」の生き方で、前進的、生産的に見えますが、その実、自己拘束的で際限のない競争主義が、その根底にあります。しかし聖書は、「福音的なものに重きが置かれているのであって、道徳的なものにではない」とトウルニエは主張します。日本人の信仰がpolite(礼儀正しい)だが、その信仰の姿勢がenjoy(神の許し、恩恵を享受)できていないのは、そのためです。一方、心の病の一般に共通する心の姿勢は、自分のようなものは駄目だ、許されるはずがないという、自責、自罰感、低い自己像です。「自己否定こそ最下の霊的な闘い」とH.ナウエンは主張します。
本日の聖書箇所でバプテスマのヨハネと、イエス・キリストのバプテスマは「悔い改めて福音を信ぜよ(信じなさい)」という表現においては同じです。 が、内容が根本的に異なっています。バプテスマのヨハネは荒野で生活し、腰布をまとい、禁欲的で激しく人々に悔い改めを迫るキリスト教でした。当時の 人々を「まむしの子らよ」と呼ぶ、厳しい裁き人でした。しかし、聖霊によるイエスのバプテスマは人々を憐れみ癒す「福音」でした。私たちの中にバプテスマのヨハネのような、厳しい裁きの精神があるのではないでしょうか?せっかちで人を自分で断罪し,自分の義を誇る優越思想、競争原理です。また私たちの中に2つの世界の分水嶺なる<ヨルダン川>があるのでしょうか。
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