【主日礼拝 】 2011 年4月10日
ある方が教会の上に十字架が掲げられているのを見て、ふと不思議に思った事があるそうです。それは、自分たちの信じる方が処刑された道具である十字架を象徴として掲げたり、十字架のアクセサリーを身につけている。キリスト者でない私は何となく不思議に思うと言いました。本来であれば呪いのしるしである十字架です。それを目立つように教会に掲げているわけですから、不思議に思ってもしかたがありません。この十字架は教会のシンボルと考えられていますが、実はそれ以上の意味があるのです。それは罪からの救いの象徴です。
「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)パウロは、正しく生きようとしても生きられない自分がいると告白しました。人を愛そうとしたいのに愛せない。そればかりか反対に人を裁き人を憎んでしまう。もっと謙遜に生きたいのに、反対に傲慢になりわがままになる。どうしてそうなってしまうのか。「もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:20)「わたしは、何とみじめな人間でしょう。死に定められたこの体からだれが救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24))パウロは自分の力ではどうする事もできない罪の奴隷から、だれか私を救ってくれるのかと叫んでいるのです。
「ほかのだれによっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4:12)。ただイエス・キリストを救い主と信じるだけで、神の前で正しい者とされ、そして救われ、永遠の命が与えられるのです。もはや罪滅ぼしも、善行も積む必要もありません。何か“ありがたみ”が無くなってしまうように思いますが、そうではありません。その赦しの裏に「十字架」がある事を忘れてはいけません。御子イエス・キリストを、あなたの身代わりとして、あなたの罪のために十字架につけたのです。それは神さまの側で大きな犠牲が払われたのです。教会に掲げられている十字架はあなたのためです。
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