【主日礼拝 】  (留守礼拝)                                     2011年5月22日 

『永遠の命に至る水』

ヨハネによる福音書 4:7-15

吉野輝雄執事

【要旨】

 スカルの井戸で出会ったサマリアの女にイエス様が言われた言葉に、だれもが強く惹かれます。私にもその水を下さい、と頼みたくなります。イエス様が与えると約束されている永遠の命に至る水とは、一体何なのでしょうか?私にもいただけるのでしょうか?そのことを今日の(留守)主日礼拝ではご一緒に考えてみたいと思います。

 真昼時に水汲みにやって来たサマリアの女が水汲みに来た時に、井戸のほとりで休んでいたイエス様が語りかけられた出来事の中に今日のテーマがあります。イエスは「暑い中歩いて来て喉が渇いている私に水を飲ませて下さい」と言われ、「水を飲ませてほしいと頼んでいる私が誰であるか分かったならば、あなたの方から私に生きた水を頼んだはずだ」と会話を続けます。
 イエス様はご自分がメシアであることを明かされた時、女の目が開かれます。そして、長い間待っていたメシア救い主であることを知り、イエス様が言われることを信じるものとなります。そして、命の水が内側から湧き上がるような生きる力がみなぎって来るのを感じたのです。他人の目に対する恐れがあったことなどを忘れ、私の過去と今の状態を言い当てた人がいると村に入って行き語り始めたと記されています。社会的にも生活の中でも魂が渇ききっていたサマリアの女がイエス様と出会い、あるがままの自分をあけ渡した時に、魂の救いに預かったのです。その時から女の生き方は一変しました。水汲みという日常の営みの中でイエス様が与えて下さる命の水を発見したのです。

---------------------------------------------------------------------------------------
【メッセージ】

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4:13b-14) cf. ヨハネ7:37

 まず、聖書の物語を追ってみましょう。
所はエルサレムの北方40kmにあるスカルの井戸(ヤコブの井戸と呼ばれていました)、時は真昼時。水は毎日の生活に不可欠ですからどの家庭でも水汲みは最優先の仕事でした。水汲みは女たちの仕事で、普通は暑さを避けて朝方に来ていた。それなのに真昼時に水汲みにやって来たこのサマリアの女には、ワケがあったようです。怠け者の朝寝坊?No. 昼にならないと来れないワケがあったのです。村に一つの井戸の周りは毎朝、大勢の女たちがいっぱいで、順番待ちがいつもの光景だった。顔なじみであれば、そこがまさに井戸端会議となり、村人の大事なつきあいと情報交換の場所でもあった。しかし、ワケがあって馴染めない人、仲間に入れてもらえない場合はどうなるか?状況は一変します。水汲みの順番を最後にされるか、ケンカをしてでも順を確保するかです。サマリアの女はケンカをしたくなかったようで、皆が水汲みを終えた後の昼間に来ようと決めたに違いありません。
 サマリアの女がかかえていたワケとは何か?16-18節を読むと分かります。
5回の離婚歴があり、今連れ添っている男は夫ではない、つまり、身持ちの良くない女だったのです。それで他の女たちから見放され、相手にされていなかったと思われます。それが、真昼時に水を汲みに来ざるを得なかった理由だったのです。そんなワケを解き明かすことが今日のテーマではありません。肝心な話はこれからです。

 そんなサマリアの女が水汲みに来た時に、井戸のほとりで休んでいたイエス様が語りかけられたのです。この出来事が今日のテーマです。
7節「イエスは『水を飲ませて下さい』と言われた。すると、女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女である私にどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。」女がこう言ったのは、当時はユダヤ人とサマリア人とは交際をしていなかったからです。ユダヤ人は誇り高く、民族の純血意識を強くもっていましたのでサマリア人が他民族と結婚し伝統的な信仰を守らない人たちだと見下していたようです。その事は、サマリアの女も承知していたのでユダヤ人であるイエス様に驚いて言い返したのです。それと、もう一つ理由があったと思われます。それまで自分のような者に声をかけてくれる人などいなかったのに、いきなり声をかけられたことです。
それに対してイエス様は、「そう言うあなたは、わたしがだれなのか分かっているのか?」と尋ね、「わたしは、暑い中歩いて来たのでひどく喉が渇いているので、あなたに水を飲ませてくれと頼んでいるのです。しかし、私が誰であるか分かったならば、あなたの方から生きた水を与えることができる私に頼んだはずだ」と言います。
このことばに女はすっかり驚き、「この井戸を掘って私どもが毎日生活できるようにして下さった先祖のヤコブ様よりもあなたは偉いのですか?」と言い返します。そこで、イエス様が女に言われた言葉が、始めに読んだヨハネ7:13です。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4:13b-14)
 女はすぐに言います、「どうかその水を私に下さい。これからは嫌な水汲みの仕事をしないで済みます。もう喉が渇くことがなくなり、食事作りや洗濯の心配も要らない生活ができます。何よりも意地悪な女たちと会わないで済みます。私を差別して来たあの女たちには絶対その水を分けてあげません」と。
そんなサマリアの女にイエス様がどう語ったか? 16節以降を読んで下さい。
「あなたの夫を呼んできなさい。」この言葉に女はグッと引き下がったに違いありません。他人に一番指摘されたくない自分の弱点だったからです。女は思います、目の前のユダヤ人は何者なのか?サマリア人の私に語りかけ、初めて会っただけなのに私の過去も弱点も見抜くとは!ただ人ではないと直感したハズです。
そこでイエス様はご自分がメシアであることを明かされると、女の目が開かれます。女は目の前にいるイエス様が長い間待っていたメシア救い主であることを知り、イエス様が言われることを信じるものとなります。そして、命の水が内側から湧き上がるような生きる力がみなぎって来るのを感じたのです。他人の目に対する恐れがあったことも忘れ、自分の過去と今の状態を言い当てた人がいると村に走って行き村人にイエス様のことを語り始めたと書かれています。
 社会的にも生活の中でも魂が渇ききっていたサマリアの女がイエス様と出会い、あるがままの自分をあけ渡した時に、魂の救いに預かったのです。その時から女の生き方は一変しました。水汲みという日常の営みの中でイエス様が与えて下さる命の水を発見したからです。


 人は毎日2.5Lの水を取り入れています(飲み水と食物によって)。命を保つために不可欠だからです。私たち東京都民は毎日の生活用水として300L位使っています。そこで水の大切さを強調して、命の水と言うことがあります。しかし、聖書で言っている「命の水」は魂が必要ととしている水のことです。この「命の水」は誰にも与えられると約束されています。但し、その人の中で湧き上がり永遠の命に至る体験となるためには条件があります。サマリアの女のように、あるがままの自分を主イエスさまの前に告白し、イエスさまとの関係に生きたいと心から求めることです。そうすれば、自分の力で頑張らなくても主イエスの方から永遠の命に至る水をタダで与えてくれます。これは信じる者に与えられる約束です。永遠の命は約束の賜物だからです。

 「永遠の命」とは何でしょうか?聖書がどう言っているか探してみましょう。
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:40)
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」(ヨハネ6:47)
よく知られているヨハネ3:16も同じ福音メッセージを告げています。
「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネ3:16)

ヨハネによる福音書のテーマは「永遠の命」と思えるほど、たびたび出てきます。
主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われ、十字架に付けられる前の祈りの中で、「永遠の命とは、唯一のまととの神であられるあなたと、わたしをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:3)という永遠の命とはという問に対する答えも言われています。
 永遠の命とは、死んだ後天国で永遠に生きるという死後の命という意味ではなく、生きている今与えられ、永遠の命に預かって日々を歩む現実の中のものであり、死によっても失われないものです。このことを忘れず今日という日を主と結ばれている恵みを感謝して歩む者でありたいと思います。

祈ります。
 私たちに永遠の命に至る水の約束を与えて下さり、ありがとうございます。私たちは自分の力でその命の水を得ることはできません。また、命の水を頂く資格もない、罪人です。命の水を知らずに滅びる運命にある者です。しかし、私たちの救い主イエス様は、私たちの罪の赦しのためにご自分の命を投げ出し十字架に架かり、三日目に復活されました。そして、私どもも復活の命に預かることができるように
道を開いて下さいました。どうぞ、私どもに復活の命の水を下さい。あなたと共に歩む道であなたの御旨を学び、新たな命に生きるものとさせて下さい。アーメン。


 
福音メッセージ一覧
戻る
                  

福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む