【主日礼拝 】 2011年6月5日
「恵み深い主に感謝せよ。神の中の神に感謝せよ。主の中の主に感謝せよ」(詩編136:1−3)。感謝とは恵みから出てくるものです。故に恵みが分からないと感謝は出てきません。では恵みとは何でしょうか?恵みの定義は、本来、受ける価値の無い者に対して無条件に、一方的に、無代価で与えられるものです。ですから100円でも支払わなければならないとなったら、それは恵みではないのです。少しでも見返りが要求されると恵みではなくなってしまいます。
ある外科のお医者さんが言ったことですが、手術をするときにいつも身体の不思議さを思わされる。それは、指や足や頭とか、身体の外側は自由に動かせるのに、内臓は何ひとつ自分の意思では動かすことはできない。つまり、自分の力の及ばないところで人は生きている、いや、生かされている。まさしく無条件で、それも一方的に、無代価で命が与えられている。私たちは明日の命さえも自分の力ではどうすることも出来ない者でありながら、今日も生かされていることは、大きな恵みであり、感謝なことなのです。
こうして、私たちは有形無形の恵に取り囲まれているのです。しかし、その恵みが分からないと、すべてが当たり前になり、当然の事となります。生きているのも当たり前、今日、家族や友人と過ごせた事も当たり前、当たり前だと思っている中から感謝は出てきません。それぞれ、この一週間の歩みを思い起こしてください。どれだけ感謝する事ができたでしょうか?
恵みのあるところに感謝が溢れてきます。感謝が出来ない、また、感謝を忘れるとき、それは恵みを忘れるときです。恵みを忘れるという事は神を忘れているときです。神を忘れ、恵みを忘れているときは、自分の力だけでやっていけると思い込んでいるときです。それは人間にとって一番“危険”な時で、傲慢になっているときです。感謝とは恵みから出てくることです。恵みを体験すればするほど感謝が湧き上がってきます。それは、私たちがいかに神の恵みに気づけるか、神の恵みに目をとめる事ができるか、ということです。パウロは「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(コリント(二)6:1)と教えています。
福音メッセージ一覧へ
|