【主日礼拝 】                                       2011年7月24日 

『知っている事を語ります』

ヨハネによる福音書9章24-34節

山岸 明牧師


 イエス様は通りすがりに、目の見えない人を見かけられました。弟子たちは、彼が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか、本人ですか?それとも両親ですか?と質問をしました。当時、目が見えない、体が不自由、病気は神の刑罰だとされていました。今でも、不幸な事が起きると、何かの“たたり”とか、悪い星の下に生まれたとか言って、人生に何の意味も見出せず、ただ、暗く苦しい世界で生きるしかありませんでした。しかし、イエス様はそういう社会に生きている人々に対して、新しい世界を展開されました。
 新しい世界とは「貧しい人々は幸である。今、泣いている人々は幸いである」(ルカ6:21)。貧しい人々が幸いな世界、泣いている人々が幸いな世界など、私たちには考えられない、見た事もない、また、見る事もできない世界です。貧しい者がなぜ幸いなのか、泣いている人々がなぜ幸いなのか、想像がつかない世界です。神の裁きだと誰もが信じて疑わなかった、あの盲人の上に、イエス様は、神の裁きではなく、神の業が現れるためだと仰せになった。これが新しい世界なのです。
そして、この盲人は、その新しい世界を見る事ができました。どうしたら見る事ができたのでしょう。それは、イエス様の仰せられた御言葉を信じ、実行したからです。「シロアムの池に行って洗いなさい」(7)。そのときに、盲人は新しい世界を体験し、新しい世界を見ることができたのです。目の見えない人にとって、そこに行く事は大変なことです。でも彼はイエス様を信頼して、つまずきながら、転びながら、その池まで行ったのです。
 癒された盲人は、最後にこう言います「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです。」(33)私たちが、誰かに福音を伝えようと思う時、聖書に関する細かな知識や教養もあったほうが良いでしょう。しかし、それは必ずしも必要なものではありません。パウロもコリントの信徒に向けて、イエス様の十字架だけを知っていれば良いと言っているように、難しい言葉を使わなくても、細かい知識はなくても、この盲人のように、そして、私たちが救われた時に感じたように、私はイエス様に心の目を開かれた、と知っている事を語れば良いのです。それが立派な証しになるのです。


 
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