【主日(召天者記念)礼拝 】 2011年10月16日
人は、自分の欲望を満たしたり、自己実現のためだけに生きるよう命が与えられているのではありません。神様の目的のために、私たちに命に与えられ、使命が与えられているのです。『使命』とは、まさに『命の使い方』です。モーセは言いました「人生はため息のように消えうせます。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(9−10)。
どうせ死んで土に帰るなら、自分の欲望のままに生きたほうが得ではないかとか、はかない命なら好き勝手に生きたほうが満足できると考える人がいます。しかし、人は肉体だけで生きているのではありません。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)とあります。
あなたの命は、どこに向かって、どこを目指して歩んでいますか?あなたの目指す先にゴールがあるのです。もし、間違った的に向かって歩むなら、その人の人生は“つかみどころ”のないものになってしまいます。正しい的に焦点を合わせて歩むとき、私たちの魂は満足し、ああ、私の人生は最高だ、と叫ぶことができるでしょう。
パウロは私たちにこのように伝えています「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも、満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のおかげです」(フィリピ4:11−14)。パウロは飢えや、貧困の辛さを経験しました。鞭打たれ、殴られ、石打に合い、そのまま放置されました。人々から、ののしられ、ばかにされ、見捨てられました。そのパウロがわたしは満ち足りていると告白したのは、何と牢獄の中でした。パウロが告白した「わたしを強めてくださる方」とは、死から復活し、世に勝利されたイエス・キリストです。『今を生きる』とは、知恵ある心を得ることです。それはイエス様とともに歩むことです。
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