【主日礼拝 】 2011年11月6日
運命論とはあらかじめそうなるように定められていて、人間の力ではそれを変更できないとする考え方で、別名『宿命論』とも言います。それは運命だから、宿命だから仕方がない、例えば、私はこういう性格だからどうしようもない。あの人は前からこうだから期待しても無理だ。世界では戦争が起き、餓死があり、経済は不況で、将来に希望なんて持てるはずがない。このように言うとき、私たちは運命論の犠牲者になっているのです。もう自分ではどうすることも出来ない、外的環境の犠牲者であると自分を見なし、受身的に生きる姿勢の事を言っています。運命論の類語を見てみますと、敗北論、あきらめ、などとあります。
イエス様は私たちに、運命論ではなく信仰によって生きなさいと仰せられます。父親が“てんかん“で苦しむ息子を癒してほしいと願いイエス様のもとを訪れました。しかし、イエス様はお出かけになっていたので父親は弟子たちに癒しを頼みました。しかし、弟子たちは癒すことができませんでした。「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、なぜ、わたしたちは悪霊を追い出すことができなかったのでしょうかと言った。イエスは言われた。信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、ここから、あそこに移れと命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(19−21)と仰せられました。
当時は難問題を解決する、すぐれた教師のことを、山を移す人、山を砕く人と呼んでいました。イエス・キリストを信頼して拠り頼むという「信仰」があれば、私たちの行く手に、いかなる大きな困難や問題が山のように立ちふさがろうとも、そのすべてを打ち破り、乗り越える事ができるというお約束なのです。弟子たちはそのような信仰を持って父親、また病気の子どもに接したでしょうか?からし種一粒ほどの信仰があれば、あの山に向かってあそこに移れと命じれば、その通りになる事を私たちは信じていますか?そんな事できるわけがない、無理に決まっている、と言うとき、私たちは運命論に生きているのです。
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