【主日ペンテコステ礼拝 】 2012年5月27日
肉の思いは、欲望を駆り立て物質主義へと走らせます。何を食べ、何を着るか、どこに住むかなど、肉体を生かす事のみを求めます。また不安や恐れ、嫉妬や憎しみを抱かせ、相手を裁き、相手を責める。恨みや憎しみというものは、他人に痛手を与えるものと思っていますが、実は相手ではなく自分に最大の痛手を与えているのです。更に肉の思いは人を騙し、自分を正当化し、自分の利益ばかりを考え、怒りを駆り立て傲慢にします。パウロは「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:14)と告白した。「肉の思いは死である」(6)とありますが、もはや自らの力で肉的な思いをどうする事もできず、ただ死にむかって生きるしかない。
私たちはどうしたら肉なる思いから解放されるのでしょうか。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、値なしに飲むがよい」(黙示録22:17)聖霊が与えてくださる命の水を飲む者は、肉なる思いから解放され、霊なる者へと変えられていきます。「霊の思いは、命と平安である」(6)とあるように、私たちに永遠の命を与え、人生の目的を教え、平安の人生を歩ませてくださり、聖霊と共に歩む者には霊の実を結ばせる、それは「愛、喜び、平和、寛容」(ガラテヤ5:22」である。
霊的であるとは、何をしたか、どれだけ有能で立派か、どれだけ完全かではなく、どれだけ神と親密な関係にあるか、どれだけ繋がっているかという事です。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:39)。肉の思いに支配を委ねれば死がやってきます。しかし、聖霊の思いに支配を委ねれば命と平和が与えられるのです。今一度、自分を手放して、神に喜ばれる生き方に切り替えるところからスタートとしましょう。
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