【主日礼拝 】 2012年9月9日
人間は一人では生きていられません。そのため家族や仲間を作ります。それは自分が安全で安心して暮らし活きるためです。自分を中心に置き、自分に合う仲間を探し求めます。仲間が増えてくると自分たちで共通するものルール、基準や原則を作り、それを守ることにします。それを守られないものは自分たちの仲間ではないと裁き、悪人と見出すのです。自分たちの仲間が善人でそうじゃないものは悪人と決めるのです。
新約聖書時代、当時も同じように律法を与えられた神の民イスラエルの子孫であるユダヤ人以外は異邦人と呼ばれました。異邦人とは「割礼のない者」「律法を持たないもの」の意味でもあります(使15:5/新242pg)。ユダヤ教の中でも特に律法を守り、宗教的な清めを強調したのは律法学者やファリサイ派の人々たちでした。ファリサイ派は律法を守らない一般のひとから自分たちを分離し、自分たちが善人で一般の人々は罪人とされたのです。イエス様に出会い前のパウロもファリサイ派であったことを自ら言っています。(フィリ3:5/新364pg)でもイエス様とであったあとのパウロはどうでしょうか?
生涯をキリストのために捧げるものとなったのです。それまでのパウロは律法に熱心でキリスト者を罪人として裁き迫害していました。今までは自分が律法を守る正しいと信じて生きてと思います。でもイエス様と出会い自分が罪人であり、誰よりも罪を犯していることに気付かされました。その自分を誰よりも愛し、身代わりとなって十字架にかけられた。そして自分が許された。このことでパウロは180度に変えられました。今までは人を裁いていた人が人を救う人になったのです。(使徒9章)
わたしたちはどうでしょうか?神の愛と許しを受けているわたしたちも、ファリサイ派のように聖書を読み、学び、教会生活を送りながら自分たちのように行っていない方たちを罪人だと裁いていませんか?イエス様は人間同士の裁きに喜びません。イエス様と出会ってイエス様に従う喜びを人々に伝えることを望んでおられるのです。わたしたちもパウロのように罪から許された喜びと希望をまだ知られていない、感じていない家族や友人、多くの方に喜びの証を持って日々過ごしましょう。
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