【主日礼拝メッセージ 】                                 2015年01月25日 

  『共に教会を建て上げよう』シリーズ 4.「祈って燃えよう」     

使徒言行録12章1-5節


山岸 明牧師

  ヘロデ王は、キリスト者を迫害すれば、民衆から歓心を得ることが出来ると考え、まずヨハネの兄弟ヤコブを捕え剣で殺しました(2節)。それがユダヤ人にと ても喜ばれたので、次にペトロを捕えて投獄しました。そして、過越際の後で民衆の前に引きずり出して処刑しようとしたのです。投獄されたペトロには24時 間の厳しい監視がなされ、逃げ出す事も、助け出す事も出来ない絶体絶命の中に置かれたのです。しかし「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられてい た」(5)。

 すると突然、天使が現れてペトロを牢から救い出された。ペトロ自身も理解できず現実のこととは思わなかった。祈っていた教会も非常に驚いた。誰もが、神 がその熱心な祈りに答えてペトロを救い出されたと信じた。では、ペトロが救い出されなかったら、祈りは意味がない事になるのでしょうか。それとも熱心さが 足りなかったという事になるのでしょうか。

 私たちが祈る時に覚えておきたいのは、祈りの結果だけを求めてしまうと、それは本当の「祈り」にはならないという事です。ペトロは今回救い出されまし た。でも、ヤコブは殺されてしまいました。教会ではきっとペトロの時と同じように熱心にヤコブの為にも祈りがささげられたと思います。もし、教会が祈りの 結果だけを求めていたら、ヤコブの死に失望し、ペトロのために熱心に神に祈ることは出来なかったと思います。

 祈ったら願い通りになった。それも恵みです。しかし、一番の価値は「祈り」そのものにある事です。祈りは神様との交わりです。その交わりを通して、慰め を受け、励ましを受け、喜びを受け、希望が湧いてくる。祈りは神が共にいる事を一番実感するときです。初代教会は、家を奪われ、町を追われ、仲間が殺さ れ、そんな迫害の中、どんな状況の中にあっても、燃えるような「祈り」を通して前進していったのです。まさに祈りは教会の、また、私たちの生きる原動力で す。

 
福音メッセージ一覧
戻る