主日礼拝メッセージ
「良い木と良い実」
聖書: マタイ福音書7章15-20節
メッセージ:高橋淑郎牧師
「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」マタイ福音書7章17
【要 旨】
これは教会の成長のために与えられたキリストの御言葉で、偽預言者の侵入という危険に備えよという警告です。
先ず第一に、キリストの教会は絶えず偽預言者侵入の脅威にさらされています。主イエスご在世中、彼の働きを邪魔したのは、異邦人(神を知らぬ外国人)や、一般民衆ではなく、パリサイ人や律法学者という宗教家でした。そんな彼らを主は「偽預言者」(マタイ23章)と呼ばれるのです。今日キリスト教会で言う「牧会者」に対する警告として読むことができましょう。一見神の民(羊の皮)の装いをしながら、その実神ではなく、自分の栄光の為に貪欲(どんよく)な働きをする者は、教会を損(そこな)います。教会はそのような者を排除しなければなりません。しかし良い実を結ぶ良い木(牧会者)か、悪い実を結ぶ悪い木(偽預言者)かを見分けることは容易なことではありません。肉の目に頼って判断を誤まると、その人こそさばかれます。いつも、どこでも、まただれに対しても霊の目をもって見ることが求められます。霊の目を下さいと主に祈ることから教会はスタートし、牧師を招聘し、その関係を清めていただかなければなりません。その為に与えられているのがガラテヤ5:16-26!
【本 文】
主題「良い木と良い実」
今朝は本来なら「成人」となった若者を祝い、成長させて下さった神に感謝を言い表すべき礼拝として計画されていましたが、今年は該当する方がおられません。しかし肉体年齢としての成人はいなくても、内なる人としての主の教会は、いつも霊的に大人の教会を目指して行かなければなりません。その意味で、今日与えられた御言葉は私たちの教会の為に最も適切なものと感謝して受け、共に分かち合いたいと思います。
「良い木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」とは、教会の成長のために与えられたキリストの御言葉です。教会はいつも良い木として良い実を結ぶために三つの敵と戦わなければなりません。外からの迫害、教会の中に潜む堕落への誘惑、偽教師や偽預言者の侵入です。ここでは特にについての警告ですから、私たちもこの点について学びましょう。
1. 偽預言者の侵入
先ず第一に、キリストの教会は絶えず偽預言者侵入の脅威にさらされているという事実を認めなければなりません。主イエスのご在世中、彼の働きを邪魔したのは異邦人(神を知らない外国人)や一般大衆ではなく、パリサイ人や律法学者という、当時ユダヤ人社会の宗教的指導者でした。だから主イエスは彼らを指して「偽預言者」、また「偽善者」と言われたのです(6、23章参照)。この偽預言者の正体は狼のように貪欲なのに、羊の皮をまとって弟子たちの中に入り込んでくるのです。動物愛護の精神から言えば羊を善、狼を悪と決めつけることには抵抗があるかも知れませんが、攻撃の為の武器もなく、抵抗する術も、身を隠す知恵も持たない羊と、敵を一撃のもとに噛み裂く牙を持ち、身を潜める知恵を持つ狼との対比としての譬えとして読んで戴きたいと思います。狼のような偽預言者が羊の皮を纏うというのは、神の民の振りをすると言うことです。
私たちが聖書を読む時に気を付けなければならないこと、それは聖書は小説ではないと言うことです。書かれていることを、その場面だけの出来事として読み過ごすことを許しません。今朝私たちはこの礼拝の為にマタイ7:15− 20を示されました。この福音書の著者であるマタイは主イエスから選ばた12使徒の1人です。後にパウロやペテロと同じように各地を伝道、牧会に励みました。そうした忙しい伝道生活の合間を縫ってこの書を著したのです。恐らく彼もまた伝道に行き詰まったこともあったでしょう。牧会の難しさに頭を抱えたこともあったと思います。そうした時、彼は「主イエスならどうなさっただろうか。どんな言葉で教会の人を励まし、或いは慰め、諫(いさ)めただろうか」等と、主のもとで過ごした3年数ヶ月の生活を思い出しては、手探りで教会に仕えたのではないかと思うのです。そのような日々の中で、やがて同労者の為に、後継者の為に、いやそれだけでなく、出来るだけ多くの教会のためにこれを書物にしておきたい。そう考えて書き上げたのがこの福音書ではないかと、私は想像するのです。そう言う思いで読む時、教会はいつの世にも、狼の如き偽預言者が侵入する危険に曝(さら)されながら伝道しているのだと改めて実感せざるを得ません。
2. その侵入を防ぐ知恵
今朝のために与えられた御言葉は、群れの指導者のことを指しています。私たちキリストの教会にとってそれは誰でしょうか。はっきり言って牧会者のことを指しているのです。真の牧者であるキリストはいつもその群れの全ての者に心を配っておられます。群れの牧会者の言動に矛盾がなく、ひたすらその群れを愛し、自分の栄光の為にではなく、神の栄光の為に、そしてその群れの羊である教会の為に陰日向なく働いてくれていることを知ったなら、教会はその牧会者の指導に喜んで従うべきでしょうが、もしその反対であると見たなら、その時は彼を牧会者の立場に留めておくべきではありません。但し、その判断基準はどこまでも御言葉に基づくものでなければなりません。個人的感情に左右されてはならないのです。教会と牧師との清められた関係造りの為に与えられたのがこの御言葉です。実によって木を知ることが出来ると主イエスは言われます。しかし案外これも熟練を要します。甘柿と思ってかじったら、実は渋柿だったと言うことがあります。群れの牧会者として招聘した者の働きが良い実なのか、悪い実なのか、それをどうやって見分けるのでしょうか。例えばある教会に30名のメンバーがいるとして、そこへ牧師が招聘された時、牧師に対する期待は恐らく3 0通りあることでしょう。すると1人の牧師の働きに対する評価も、もしかしたら30通りの評価に分かれるかも知れません。ある人にとって、良い実と見えても、別の人には悪い実と見えることでしょう。一人ひとりが自分を基準にして牧師を評価するからです。これはその牧師のみならず、教会にとって大変不幸なことです。御言葉に立つことを忘れると、牧師を招聘したことで、却(かえ)って教会を破壊してしまうことになりかねません。果たしてどんな実がその教会の為に良いのか、或いは悪いのかを見極める熟練した目を持つ為に、先ず御言葉に聴きましょう。ガラテヤ5:16−26(新約聖書p.349)がそれです。教会も牧師も、お互いにこの御霊の実を結ぶことこそ主イエスによって期待されているのです。
祈りましょう。
天の父なる神さま。御名を崇めます。
今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げる幸いな時が与えられましたことを心から感謝します。私たちはこの年も互いに愛と信頼、尊敬と謙りの中で、良い実を結ぶ良い木として成長できますよう、私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。
アーメン。