主日礼拝メッセージ
「あなたを担う主」
- 「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
- 『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」 (マタイ福音書8章17節 )
【要 旨】
ペテロの姑(しゅうとめ)が高熱に苦しんでいるのをごらんになった主は、憐みをもっていやして上げました。その日は安息日でした。仕事と娯楽を禁じ、歩く距離さえ規定している安息日の終る夕方を待って、同じような苦しみにあえぐ人を連れて、次から次へとペテロの家を訪ねて来る人々をも、主イエスは快く受け入れて、癒しと恵みの業を施して上げました。
マルコもルカも、これを神の子イエスだからできた愛の業だと書いています。(マルコ1 : 34、ルカ4 : 41)が、マタイだけはイザヤ53 : 4 を引用して、神が人の姿をとって此の世に降り、人の子として全ての病苦や罪のとりこになっている人々の病苦や罪を負うて(「取り去って」という意味)下さったと言います。
今私たちの教会にも負いきれない程の病や患いという重荷に呻吟(しんぎん ; 苦しみうめく)している兄弟姉妹が少なくありません。だからこそ今日お伝えしたいのです。主イエス・キリストは深い憐れみの御心をもって、あなたの今の状況を御存知(御覧)です。あなたの苦しみも悩み全て十字架の上に共有して下さっています。夕となり、また朝が来ます。涙の向うに喜びがあります。絶望の叫びの向うに勝利の讃美を歌わせて下さる主イエス・キリストがおられるのです。
【本 文】 「あなたを担う主」
マタイ8:1−17に3つの癒しの記録があります。1−4節ではハンセン病の癒しを通して清めについて学びました。5−13節では異邦人の病の癒しを通して神の愛の普遍を学びました。それでは今日示された14−17節の病の癒しを通して私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか。
1. 霊の眼差しを持つ
今日の物語の前半は、ペテロの姑が中心です。多分夫に先立たれたので、娘の嫁ぎ先で同居していたのでしょう。漁師はいつも死と隣り合わせの危険な仕事です。その上収入も安定しません。貧しい家で彼女の出来ることと言えば、娘夫婦の重荷にならないように努めることであり、婿達の無事と仕事の成功を祈るのみです。処がある日、そのささやかな願いを打ち砕く事件が彼女の身に襲いかかりました。高熱で立てなくなってしまったのです。彼女の心の苦しみはいかばかりでしょうか。病気になると言うことは、ただ体が変調するだけではありません。自分の生活全体が音を立てて崩れて行くのです。家族に色々な面で大きな負担をかけると言う負い目が心の中に重くのしかかってくるのです。今日は安息日です(マルコ1:29、ルカ4:16,38)。ユダヤでは、安息日には会堂での礼拝を終えると、友人を招いて家族全員で食事をする習慣がありました。ペテロとアンデレも主イエスと友人のヤコブやヨハネを食事に招きました。せめて礼拝で得た恵みの余韻を姑にも味わせてやりたいと考えたからでしょう。その時「人々(ヤコブとヨハネ?)は早速」彼女の病気のことを話し(マルコ1:30,ルカ4:38)、主もまた彼女を「御覧になり」ました。この「御覧になった」には「理解する」、或いは「注意する」という意味があります。著者マタイはかつて税吏ですから、かつては細心の注意を払って帳簿を調べたことでしょう。主も今ペテロの姑を細心の注意を払って「御覧」になりました。しかしその目は慈愛に溢れたものです。勿論病そのものに対する深い憐れみです。同時にそれは彼女の心の奥底に隠されている哀しみ、苦しみ、切なさ、怒り、孤独、不安等色々な思いが複雑に絡み合っているその全てに対する深い理解を示す眼差しです。東京にも数多くキリスト教系の病院があり、チャプレン(病院専任の牧師)がいます。京都には私達日本バプテスト連盟の事業体の一つで「日本バプテスト病院」と「バプテスト・ホーム」という特別養護老人ホームがあり、それぞれにチャプレンがいます。病人は病気の背後に隠されている沢山の問題と、そこで流す涙に届く目を求めています。この病院は「キュアからケアへ(病気の治療と同時に魂への配慮を忘れるな)」の標語の許に、全ての患者さんに仕えているのです。
ペテロの姑は主イエスに癒された時、一番先にしたのは主イエスをもてなすことでした。恐らく娘は「お母さん、そんなことは私がするから、まだ暫く休んでいて」と言ったかも知れません。しかし彼女はその制止の手を振り切って、喜び勇んで台所へ走って行ったのです。人は歳をとって体が思うように動かなくても、重い病気になっても自分はこの家で、この社会で何か役に立つ者でありたいと願っているのです。ですから教会はいつも、この主イエス・キリストのような目を与えて下さいと祈りつつ、病む人の傍らに立つことが大切です。また高齢者の方や身体に弱さを持っている人に、何もしないでじっとしているように言うことが親切だと思い違いをしてはなりません。その人の出来ることをして頂くという謙虚さと、信頼が必要なのです。主が癒された彼女のもてなしを喜んで受けて下さったことを見逃してはなりません。
2. あなたを担う主
夕方になると、人々は多くの霊も心も体も弱り切った人を主イエスの御許に連れてきました。ユダヤでは毎週金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日と呼び、この日は会堂礼拝に出席することの他は一切の勤労も娯楽も禁じ、歩く距離さえ規定していました(使徒言行録1:12)。ですから人々は安息日の終わる夕方を待っていたのです。主は頼ってくる者全てを癒して下さいました。このことについてマルコもルカも「イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスをメシアだと知っていたからである」と結んでいます。それはイエスの神性を強調した書き方です。しかしマタイはこれをイザヤ53:4の預言の成就と理解しています。マタイは私達の罪も汚れも弱さも一切を贖い取って下さる方は、人と成られたイエス・キリスト以外にないと言うのです。17節の「病を負うた」とは「取り去った」と言う意味だからです。
私たちの教会にも試練の数々の中で苦しんでいる人が少なくありません。「どうしてですか?」と神に叫びを上げている人を多く見ます。だからこそ、試練の中に置かれているあなたへのメッセ−ジとしてこの御言葉を受けて欲しいと思います。聖書の中には、主イエスが耐えきれないほどの試練の中にある人を見て「深く憐れまれた」という御言葉がありますが、この「憐れまれた」という言葉の語源は「内臓が身もだえする」と言うのだそうです。ただ上から「可哀相に」と薄っぺらな同情をすると言うのではありません。主は主の内にあるはらわたが締め付けられるような思いで、苦しむ者の苦しみを共有して下さっているのです。「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担って」下さるのです。十字架は主イエスご自身の身をもって示す、あなたへの神の愛の究極のメッセ−ジなのです。
祈りましょう。
天の父なる神さま。御名を崇めます。
今この教会には余りにも多くの兄弟姉妹が、苦しみの極みにあります。この方々に対して私たちは余りにも無力です。ただあなたの憐れみにすがる外ありません。ペテロの姑に示して下さった愛を、友人家族の手であなたの御許に連れられてきた悪霊につかれた人や病人に示して下さったあなたの愛を、今私たちも私たちの出来る精一杯の心で、愛する兄弟姉妹の名を挙げてあなたに縋りますから、あなたの愛と憐れみを施して下さい。
私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。