2000年2月20日

主日礼拝メッセージ

主を畏れる 

聖書: 箴言 1:7

主を畏れることは知恵の初め。無知なものは知恵をも諭しをも侮る。
          (箴言 1:7)
 
                   メッセージ:吉野輝雄執事

【要 旨】

 科学が進歩すると信仰はすたれてなくなっていくのだろうか?

 コンピュタ、通信技術、マルチメデイアなどが急速な勢いで発展し、私たちの日常生活にも深く入りこんで来ている。それを見ていると、人間の力が大きく写り、神の力が陰に追いやられ見えなくなってしまうようだ。一方で、海・森・河川の開発と称する自然環境の破壊、国のエネルギーの安定確保を目的とする核燃料工場の事故などを前にして、人間は自らの行為によって未来に対して明るい希望が持てなくなっている。これが現代の一面ではないだろうか。

 私は時々、「自然科学と信仰とは矛盾しないのですか?」と質問されることがある。私は、いつも、「全く矛盾しません。」と答えている。その根拠は、聖書が証ししている天地創造の神を畏れる信仰にある。自然は今も神の手の中にある。人間は、その中の存在の一つである。旧約の時代、人々はそのことをまっすぐに信じていた。かれらの神を畏れる信仰にむしろ学ぶべきことが多い。時代を超えて存在し、私たちと関わっておられる神に今こそ目を注ぐ時である。

「主を畏れることは自然科学(技術)のはじめである。」


【本 文】  主を畏れる 

        

0.はじめに

 去年の9月26日に礼拝奉仕をさせていただいた時の主題は、「恐れるな」であった。今日は、「主を畏れる」。正反対に聞こえるかもしれないが、漢字が違うことに注意。今日は主題に沿いつぎの4つのパートに分けて話す。

1. 科学/科学技術と信仰
2. 「主を畏れる」ことの意味を聖書から学ぶ
3. 科学が進歩すれば信仰はすたれ、不必要になるのか?
4. 私どもの信仰

 

1. 科学/科学技術と信仰

 今、コンピュタ、通信技術、マルチメデイアが急速な勢いで発展し、私たちの日常生活にも深く入りこんで来ている。この2、30年間に衛星放送が発明されて茶の間に居ながらにして世界中のことが分かるようになった。インターネットで外国の友人とメールの交信がすぐさまできる。インターネットの機能をもった携帯電話が普及し始めてからまだ10年も経っていないのに若者をはじめ多くの人が使っている。今、宇宙船エンデバーが無重力空間を飛んでいるが、乗組員の毛利さんが地上の子ども達と画面を見ながら話している場面がTVで放送されていた。すごい進歩。正に驚異だ。人間の知恵の輝かしい成果と言う人がいても当然かも知れない。しかし、今一度立ち止まって考えてみたい。

 果たしてこれらの技術的進歩は、すでに人間が地球を自然を自在に変える力を手にしたということか?果たして手に入れた知識と力を正しく使う知恵も同じ程度に進歩したのか?判断はさまざまだと思う。進歩の反面、地球環境汚染の実態や核燃料工場の人為的な事故などを見ると、人間のやることには、不完全さだけでなく、飽くなき欲望、怠慢といった自己中心性のために大規模な技術力を使う場面であればあるほど技術の進歩に不安を感じてしまう。とは言え科学技術の進歩のすべてを否定することはできない。では、このような時代にどのように生きていけばよいのだろうか?

 大きな問題すぎて簡単には答えられそうにない問題だが、そのような科学とその成果に囲まれた生活の中にある事は事実なので、以下、キリスト者としての私がいま考えている事を述べさせて頂き、どのように生きる事を主なる神が望んでおられるのかを聖書から学びたいと思う。

 私は、一人の自然科学者として自然の仕組みに興味をもって研究と教育に携わっている。そして、人間の科学と科学技術の華々しい成果を目の前に見、実際その恩恵によって快適な生活をしているが、それでも人間の知識と技術力は自然そのものの偉大さ、緻密で神秘に満ちた仕組みには遠く及ばないと思っている。特に生命の仕組みはまだ解き明かされていないことがたくさんある。生命を自由に操る知識と力である医学の進歩が目覚ましいにもかかわらず、まだ幼稚な段階にあると思っている。原因不明の病気や治療法が確立してない病気がまだまだ多くあることがそれが証明している。

生命科学者の柳沢桂子さんの生命観に耳を傾ける
 (朝日新聞から:2/2/2000)
<紹介文から>
30年前原因不明の病気になり、全身のしびれで4年前から動けなくなった。めまいと吐き気で寝られないほど苦しい病気で、点滴だけで生きていた。これ以上続けるのは過剰医療ではないかと感じ、点滴をはずして命を絶つ決心までされた。ご主人にそれを告げた晩、偶然にTVで抗うつ剤が痛みに効くという事を見て治療を受けたところ1週間ほどで痛みがとれ、起きられるようになった。
病気と生命科学の研究のかたわらで「生命とはなにか」を問う著作22冊を出版。
新聞は「生命とはなにか」という問題を正面から扱ったインタビュー:
 
Q:そういう体験をされた生命科学者として、命というものをどんな風に考えていますか。
柳沢:私は、命は自分一人のものじゃない、家族やお世話になったお医者様、みんなのものだと思っていた。苦しいから勝手に死ぬと言えるものではない。反対があれば最後まで説得できるまで頑張らなくちゃいけないと。臓器移植でも、脳死の人が生前に意思表示をしていても、家族がつらい思いをするのだったら使ってはいけない。
Q:それはどうしてですか。
柳沢:どうしてでしょう。生命科学をやってると、命の敬虔さっていうか、命はそれを持っている人のものだなんて、思い上がりだと思うですね。
36億年の歴史をもつ生き物が、その歴史をたどって、今、私のところにたどりついている。で、大きな宇宙の中の一つの点みたいなものですから。
Q:宇宙の中の点、それが私。
柳沢:ええ、私は、この地球環境の中に生かされている。花も草も虫もいろいろな動物もいて、中の一つとして私がある。
宇宙からいただいた命は宇宙にお返ししなくちゃいけないものだと思っています。
    (この後も「命の対話」が続くが/割愛)

生命科学者としてとてもユニークな意見だ。生と死に長い間向かい合って生きて来られた科学者の美しく澄んだ意見だと思う。

科学が進歩していけば、生命の仕組みが明らかになって今直らない病気も直るようになるのだろうか。この世の中には科学・医学が進歩すれば、いずれ宗教を信じる必要がなくなると考えている人が多いようだ。私は、科学・医学の発展をめざして人間が努力することを否定するつもりはない(むしろ奨励する立場にある)。しかし、一方で信仰はどんなに科学が進んでもすたれることはないと考えている。むしろ科学が進歩すればするほど神への信仰が大切になると考えている。私の場合、その根拠は、聖書が証ししている天地創造の神を畏れる信仰にある。

2. 「主を畏れる」ことの意味を聖書から学ぶ

ここで、主に旧約聖書から「主を畏れる」ことの意味を学びたい。箴言、詩編には度々「主を畏れる」という言葉が出てくる。その一つが今日読んで頂いた箇所だ。

主を畏れることは知恵の初め。
無知なものは知恵をも諭しをも侮る。(箴言 1:7)

私は20年以上前にこのことばと出会った時、 知恵を科学と読み替え、 「主を畏れることは自然科学(技術)のはじめである。」 と理解した。その時から自然科学に携わる者として座右のことばとして来た。しかし、この機会に「主を畏れる」とは本来どのような意味をもっているのかを改めて聖書から学び直してみた。

わが子よ
わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして
知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら
銀をもとめるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら
あなたは主を畏れることを悟り、
神を知ることに到達するであろう。
知恵を授けるのは主。
主の口は知恵と英知を与える。 (箴言 2:1-6)
 
主を畏れる人は誰か。
主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。
その人は恵みに満たされて宿り
子孫は地を継ぐであろう。
主を畏れる人に、主は契約の奥義を悟らせてくださる。 (詩編25:12-14)
*知恵は熱心に求めなければ得られない。(本気で/銀貨を払って:ただで学ぼうとしてもダメ)。求めるものに主は知恵と英知を与える、と約束されている。知恵とは神の真理を知る力。英知とは選ぶべき道を理解する力、判断する力のこと。
*その結果として、主を畏れるとは何なのかを悟ることができる。また、主の契約の奥義を悟らせて下さる。神の真理を知ることに到達する(信仰の達人となれる)。
 
自分自身を知恵あるものと見るな。
主を畏れ、悪をさけよ。
そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり、
あなたは潤されるであろう。 (箴言 3:7-8)
*自分が持ち合わせている知恵に満足するな。自分を知恵者と思うな。
持つべき知恵は神の知恵ほど高く、深いからだ。謙遜こそ知恵を求める者の初めである。

 知恵とは、単なる人間の知識ではないことが分かった。因みに、内村鑑三は、1919年の聖書之研究で「主を畏るるは天然(自然)科学のもとなり、哲学のもとなり、倫理道徳のもとなり、いっさいの学問または教育のもとなり」であると説明している。

3. 科学が進歩すれば信仰はすたれ、不必要になるのか?

 聖書を正しく読み、内村鑑三のように理解をすれば、科学がどんなに進歩しても信仰がすたれ、不必要になることはないことが分かる。しかし、このことが現代の世の中では受け入れられていない。なぜか?信仰の何かが理解されていないからだ。その責任は、クリスチャンの証が足りないことにもある。クリスチャンがまず科学と信仰について確かな理解をもたねばならない。

ユベール・リブース他著「世界でいちばん美しい物語」<宇宙・生命・人類>
(世界15か国で読まれているフランスのベストセラー)はつぎのように言っている:
科学が世界を理解しようとするのに対して、一般に宗教は生に意味を与えることをその使命にしてきた。科学は神を排除するわけではなく、神の存在を肯定も否定もし得ないのです。

私も同意見だ。昨秋、大学の講義で150人の学生を前で意見を語って来た(毎年、最後の講義で一人のクリスチャンとして、科学と信仰についての見解を語って来た)。<プリント参照>。

●聖書・創世記1:1 「初めに神は天地を創造された」を私がどう受けとめているかを以下に述べて、講義の範囲を超えた個人的見解を表明をしたい。
Whyへの応答が信仰:
  初め(根源)があった事、天地を創った創造主の存在を私は信じる(これが私の信仰表明)。
  すなわち、「初めに神は、天地を支配する自然法則を定められた」
  「その自然法則に従って神は天地万物を創造された」と信じる。
   自然法則は天地創造以来不変。そうでなかったならば、自然科学は成り立たない。
How(「自然法則がいかに成り立っているのか」)を究める人間の営みが自然科学:
   自然科学はなぜ神があるのかを問わない(それは信仰の問題だから)。
   自然科学は、普遍的自然法則の内実を物質系、生体系、宇宙の中にさがす営みである。
   科学技術は、その知識体系を利用して新しい機械、電気・電子製品等を造る営みである。
これが私の見解だ。
 
 創世記によると、“神は第1日目に光、第2日目に水、第3日目に植物、第4日目に太陽と星と月を、第5目に動物、そして第6日目に人間を造られた。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった”とある。これは、神を信じる者が天地創造の順序(進化)を直感的に(科学的にではなく)言い当てたものである。われわれ人間も数十億年もの長い期間の進化の過程を経て神によって造られ、宇宙/自然の中に置かれた存在である。
 また、創世記には「神は御自分にかたどって人を創造され、男と女に創造された」と記されている。
人間が神のかたちにかたどって造られているとはいかなる意味か?人間の知的、感情活動も霊性(信仰心)も天地創造の神が定めた自然法則からはずれてはいない、ということか?これは大問題だが、ここではあえて答えないことにする。ただ、人間(自分の中)には、神のかたちがあるかのように真実を求める心と、その正反対の悪魔性が潜んでいる事を認めざるを得ない。その事実にたじろぎつつ、なお生きることと死ぬことの意味を問い続けている存在が人間である。このような問いを哲学というのだろうか?そうであるならば、人間は、哲学的存在である。すなわち、いかに生きるか?を問い続けている存在である。天地創造の神との関係から見れば、いかに生きているかが問われている存在である。
あなたはどこから来たのか?
あなたは今どこにいるのか? Why are you here now? 
あなたを囲む世界、隣人、自然とどのように関わっていこうとしているのか?
あなたは、これから何をめざし、どこに行こうとしているのか?

1)科学という人間の業は、神の造られた自然の法則に従って行われる営みであるという根本認識と、2)神が造られた自然の産物を自然の仕組みを利用して人間生活に役立てているのが科学技術であるという認識に立てば科学と信仰とは矛盾しない。それどころか、神の存在と信仰なくしては科学は始まらないのだ。

 科学技術にしても同じだ。人間が自然から学んだ知識や力を何のために使うのか、といった問題の答えは科学からは出て来ない。人間理解、社会のあり方についての様々な意見と選択の自由に基づいて決定していく必要がある。その時に、自己中心の業を抱えた人間が、自然の動植物と共に大きな自然の中に置かれた存在であるという基本認識をもっているかどうかが決定的に重要であると思う。つまり信仰である。

 科学との関係で信仰をとらえるとすれば、まず人間が自然を支配し勝手に作り替えることが許されている存在ではないことを認めることが信仰であると私は思う。人間は自然を奴隷のように勝手に使役できる主人公ではなく、神から造られた存在であることを忘れてはならない。自然は今も神の手の中にある。人間は、その中の存在の一つである。そのことを謙虚に認め、神を畏れながら、自然科学の営みをしていくことがこれから益々大事になってくる。

4. 私どもの信仰

 そこで、すでに主なる神を知っている/主を畏れる信仰を与えられている私どもはどうすればよいのか?これまで教会が大事なこととしてきたことを本気で大事にしていくことであると思う。すなわち、今、私どもが行っている礼拝(主を畏れる生き方の証)、聖書の学び(主から知恵を頂く機会)、祈り(主との人格的関わり)、交わり(「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という神が求めておられる人間関係)の意味を再確認し、主の前に心新たにする決心をしよう。そして、科学、科学技術が進歩しても変わらぬ知恵を求め、主を畏れる信仰に生きるものでありたい。

祈ります。

天地を創造し、私ども人間を命あるものとしてこの地球におかれた主なる神様。あなたの御名を讃美します。あなたの無限に大きく深い知恵と業の一部を私どもに科学を通して見させて下さり感謝します。自然はそのままで人間の力と知識を超えた驚異でありますが、あなたは自然の中に隠してあられた業を人間が理解し利用することを許して来られました。願わくば、人間の手に委ねられた知識と業を感謝して受け止め、あなたが喜ばれるように使っていくことができますように。多くを委ねられている今の時代こそ、あなたを畏れる信仰を第一に持つものでありたいと祈るものです。そのように主にあって証しできるよう助けて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。                                                                     


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