主日礼拝メッセージ
「絶望してはならない」
聖書: マタイによる福音書8:28-34
- メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
人間は霊と心とからだという三つの要素で構成されていると新約聖書に書かれています。またからだは心に支えられ、心は霊に支えられています。何故なら、霊は「永遠を思う思い、唯一永遠なる神と交信できるレーダーであるから」と旧約聖書に書かれています。「人の霊は病にも耐える力があるが、沈み込んだ霊を誰が支えることができようか。」(旧約聖書 箴言18:14)と書かれていることも興味深いです。からだは心に支えられていますから、心が痛む(病む)ことがあります。その時人には神が必要なのです。心が痛む時、霊以外にそれを力づけ、癒す力は無いからです。ここにクリスチャン医師、カウンセラーが求められる所以(ゆえん=わけ)があるのです。
しかし、その霊が傷(いた)めつけられることもあります。神が生きておられ、多くの天使が存在するように、悪魔も活動し、多くの悪霊がそれに仕えていることを疑ってはなりません。今日のテキストはこの悪霊に永遠を思うはずの霊を支配されかかった二人の男性のお話です。悪霊からこの人達を救う力はこの世の何を持ってしてもありません。肉体的医療も精神医療も役に立ちません。からだや心の病気ではないからです。祈りと神の御言以外に勝利、解放の道はありません。今も私たちの霊を支配しようと誘惑する者があります。しっかりと目を覚まして、主イェスの助けの御手にすがりついていましょう。
【本 文】 「絶望してはならない
」
聖書は「人間は霊と心とからだと言う三つの要素で構成されている」と言っています(テサロニケ5:23)。本来、 霊は心とからだを支える重要な働きをしています。また目に見えるものばかりでなく、目に見えない霊の世界に対して敏感な能力を備えている「永遠を思う思い」、即ち神を思う思いです (コヘレトの言葉=口語訳、新改訳伝道の書=11:5,3:11)。霊こそ神との交信を可能にする唯一のレーダーと言うことが出来るのです。また「人の霊は病にも耐える力があるが 沈み込んだ霊を誰が支えることができよう」(箴言18:14)ともあります。人間を根底で支えているはずのこの「霊」が、実は何者かによって攻撃を受け、傷つきやすいのです。何者かとは何者なのでしょう。それが「悪霊」だとマタイは一つの出来事を通して私たちに警告しています。神を思うはずの霊は神に敵対するサタンとその使いである悪霊どもにとって格好(かっこう)の攻撃の的です。今朝は悪霊に翻弄されていた二人の哀れな人に、主が成して下さった驚くべき御業について学びたいと思います。主イエスの一行が到着した町はマタイではガダラと言います。この町には絶望的な二つの状況が見られます。主はそれら全ての人たちに「絶望してはならない」と語っておられます。
1. 絶望的な叫び
福音書から受けるガダラの印象は、ちょっと読んだだけではいかにも片田舎という印象ですが、見落としてならないのは、ここは墓場だと言うことです。2千年も昔のことです。もし辺鄙(へんぴ)な田舎であれば、恐らく墓などなかったでしょう。遺体はごく簡単に葬られ、後は獣か猛禽(もうきん)の類に食べられて、辺りは遺骨の山と言った具合です。エゼキエル書に枯れた骨の放置された谷が描かれていますが、それと同じ光景がここにあっても不思議ではないのです。墓を持つ事が出来るのは金満家か上流階級に限られていました。人が丁重に葬られているのです。即ちかなりの文化都市、また商業地としても栄えた町と言われています。ユダヤ人は嫌いましたが、異邦人にとって豚は掛け替えのない交易商品です。町は活気に溢れていました。ユダヤ人は彼らを「異邦人」と呼びます。それは民族的な差別用語ではなく、神無き文化を形成する民族、生ける神を恐れない民族のことをそう呼ぶのです。豊かな町、華やかな文化、しかしこの町に神はいないのです。神を受け入れない町なのです。その町の中にさえ、生きて行けない2人の姿があります。彼らは汚れた霊、悪霊の支配に苦しんでいます。これはこの町に住む人に対する警告とも言えるのですが、この町は彼らを墓場に閉じこめたまま、相変わらず神無き文化を楽しんでいます。静まりきった墓場で絶望的な叫びを上げる2人の男の姿も痛々しいですが、ガダラの町に住む人々の姿もまた哀れです。だからこそ主イエス・キリストは嵐を踏み越えてこの町にやってきて下さったのです。「絶望してはならない」と言う福音を携えて。
2. 絶望からの解放
「悪霊につかれた人」と「心を病む人」を同じと考えてはなりません。心を病む人のためには、正しい呼び方ではないかも知れませんが、神経症、精神分裂症、多重人格症(これは多くの場合、幼児期に性的暴力や虐待などを受けて累積したストレスが、ある時様々なかたちで人格障害を起こして発症する病気です)など、その症状に応じて色々な治療の方法があります。医療機関での診察と投薬治療、ロゴセラピー、ミュージックセラピー、アロマセラピー等専門的な知識を持ち、十分な訓練を受けた人によって、忍耐強くカウンセリングを継続することによって随分良い結果を見ることが出来ます。カウンセリングの本来の努めは、その人の内に与えられている霊を覚醒して上げることにあるのです。科学的治療と共に、永遠を思う思いに目覚めさせることによってその人は癒されて行くのです。心を病む人の治療はクリスチャン医師、クリスチャンカウンセラーこそふさわしいと言える理由はそこにあります。
しかし、悪霊はその人の内にある「永遠を思う思い」である霊そのものを破壊的に支配しようとします。もはや科学的治療も、様々なカウンセリングも何の役にも立ちません。これは神さまとサタンの戦いだからです。神さまは沢山の御使を従えておられますが、サタンもまた大勢の悪霊という使いを従えています。墓場で叫ぶ2人はこの悪霊に弄ばれて、今や絶望的な叫びを発しています。マルコ5:9やルカ8:30では、この人達は自分を「レギオン」と名乗りました。そして「大勢ですから」と名前の由来まで自己紹介しています。レギオンとはローマ軍団の1単位で、最高6,000人でもって構成されていました。ガダラの墓場にいる2人の中にそれぞれこんなにも多くの悪霊が侵入してほしいままに振る舞っています。主イエス・キリストはこのような悲惨な現場に足を踏み入れました。マルコ5:6−8によると、彼らの方から主イエスの下に走り寄り、ひれ伏しました。主イエスはすぐに彼らに「汚れた霊よ、この人から出て行け」とお命じになりました。この瞬間こそ絶望の淵からの生還です。すると彼らは「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」と言い、遙か離れたところにいる豚の群の中につかわして下さいと願いました。主はそれを許しました。すると、悪霊は豚と共に行くべきところへ雪崩を打って落ちて行きました。
これは2千年前の物語、作り話ではありません。20世紀の今日も悪霊は生きて働き、多くの人を苦しめています。私は実際に悪霊に憑かれたと言える人を見たことがあります。その人の名誉の為にここで詳しく申し上げることは出来ませんが、確かに見ました。そして主はその人をも悪霊から解放して下さった事実を目撃した者の一人です。精神病患者とは全く違う状態であったとのみ、お伝えしておきます。実際不真面目な気持ちで悪霊に係わることは危険です。避けるべきです。主イエス・キリストでさえも悪霊に係わり、それと戦うためには祈りと断食をもって、聖霊の干渉を頂くことが何よりも優先して求められると言われたほどです(マタイ17:21)。ガダラの2人がいつどのような経過をたどって悪霊に支配されるようになったのか分かりませんが、今日その危険は一杯あります。悪霊は殊に宗教的な雰囲気の中にすきを伺っています。破壊的カルト宗教や、占いの霊が誘惑してきます。悪霊に魂を奪われないようにしましょう。
3. 二つの応答
もう一つここで考えさせられることがあります。マルコ5:20では悪霊から解放された人はこの後ガダラ地方の10の町に出て行って。自分の身に起こった神の救いの出来事を告げ回ったと証言されています。しかし、豚を飼う人々と町の人々はこんなに素晴らしい神の御業を目の前にしながら、救主を町から追放しました。この世は一人の悪霊に苦しむ者よりも、目の前の豚の方が大切なのです。豚を失った悲しみの余り、悪霊から解放された人を喜ぶことが出来ないのです。今日も一人の魂よりも、目の前の経済性や、社会的秩序が乱されはしないかと恐れる余り、その人を主イエス・キリストと共に追い出そうとします。
主は今朝私たちに「絶望してはならない」と言われます。これは勿論悪霊に支配されている人のために与えられた第一のメッセ−ジですが、この世の物に執着して、永遠のものを見失っている人々のためにも与えられたメッセ−ジであることを忘れてはなりません。一人の人間の命は地球より重いと言います。それと共に、一人の救いは天に大きな喜びがあることを、いつも心に留める教会であることが出来ますように。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。今朝は隙あらば私たちの霊を自分の支配下に置こうと誘惑の手を伸ばす悪魔とその手先である悪霊の恐ろしさを学びました。この礼拝を終えて、それぞれの生活の場に遣わされる会衆は、ガダラのように一見華やかな文化の中に散って行きます。しかしその華やかさが、真理からそれる生活の第一歩ともなりかねません。どうか、聖霊様が彼らの行く手を常に導いて下さい。「わたしに平伏せ、そうすれば、これらの全てはあなたのものになる」とサタンが嘘八百並べて誘惑してきても、決して耳を貸すことがないように、会衆一人一人をお守り下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。