主日礼拝メッセージ
「あなたの罪は赦された」
聖書: マタイによる福音書9:1〜8節
- メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
今朝は中風(ちゅうぶ)という病気の人と主イエスとの出会いの物語です。例えば神と私の関わりは個人的なことですが、私が神と出会う為には多くの人の愛を必要としていたことを忘れてはなりません。この中風の人が主イエスの下に来ることができたのは4人の男(マルコ2:3)たちのおかげです。家族でしょうか、隣近所の人でしょうか、それとも友達でしょうか。彼らの病人を思う気持ちは愛にあふれていました。集会所が満員だからといってあきらめませんでした。人の家の屋上に上がって、屋根を破り、そこから吊り下ろすという、常識を越えた方法で主イエスの目の前まで連れてきたのです。主の下に運んでくればこの病人は何とかなるという信仰がそうさせたのです。それによって病人は癒されたばかりか、罪の赦(ゆる)し、滅び行く運命の霊までも救われて永遠の命を得ることができました。先程人手を必要としていた人が、今は神を讃美しながら自分の足で家路についたというのです(ルカ5:24)。
主は中風の人に「あなたの罪(複数)は赦される」と言い、その後「起き上がって・・・家に帰りなさい」と言われました。一時的な病の癒しも大いなる奇跡、感謝すべきは主の御業です。それにも優って感謝すべきは魂の救いです。永遠の命に至る罪の赦しと救いこそ最も大いなる奇跡です。主に栄光!
【本 文】 「あなたの罪は赦された」
新共同訳聖書のマタイ9:1−8は、「中風の人をいやす」と言うタイトルがついていて、その下の( )の中にはマルコ2:1−12,ルカ5:17−26も参照するようにと書いてくれています。昔からマタイ・マルコ・ルカの3つの福音書を共観福音書と言われています。イエスさまの物語をお互いに補い合うようにして書かれているので、こう呼ばれるようになりました。私たちもマルコ・ルカを参考にしながらこの物語を学ぶことにしましょう。
1. 仲間の信仰に支えられて
ご自分の町に帰ってこられた主イエスはある日、誰かの家で御言葉を教えておられました。今で言う家庭集会です。そこへ4人の人が1人の中風患者を床に寝かせたまま運んできました。ここにはただ「イエスのところへ連れて来た」と簡単に書いてありますが、マルコ・ルカによると運び込んだ人々の涙ぐましい努力が見られます。患者の方からこの集会に是非行きたいと周囲にせがんだのか、それとも本人はさほど行きたいとは思っていなかったけれども、周りがこの人を何とかしてイエスさまの御許に連れて行ってやりたいと思ったからか、いずれにしてもいざ実行するとなると、色々難しい問題に直面しました。誰がどう言う方法で連れて行けば良いのか、ああでもないこうでもないと相談して、結局床に寝かせたまま運ぼうと言うことになったのでしょう。そんなことに時間がかかり、また担架を運ぶ道中も時間がかかり、会場に着いた頃には既に入り口まで人が溢れています。とてもイエスさまのそばへ運んでやることが出来ません。こんな時皆さんならどうしますか。通常こう言った場合3つの方法が考えられます。
- 既に来ている人たちの愛と同情に期待してこの人をイエスさまのみそば近くにリレーしてもらう。
- 集会が終わるまで待つ。
- あきらめて帰る。
ところがこの人達は途方もないことを考えつきました。人の家の屋上まで担ぎ上げ、その屋根をはがして穴をあけて、そこから吊り下ろしました。ルカは「しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので」(5:19)と言っています。この4人もしばらくは立ち往生しました。祈りながら色々な方法を考えた末、最後の最後にこれしかないと、屋上を利用することにしました。愛する者を何とか主の御許に近づけてやりたいという愛と祈りと熱心が、このような途方もないアイデアを生んだのです。 勿論日本の住宅構造の認識からは不可能です。しかしユダヤ人の家は直方体で、屋根は平らです。屋上に通じる階段は外側に取り付けられていて、誰でも自由に上り降りして良いことになっています。屋上には四方に落下防止の欄干が付いています。律法によると「そうすれば、人が屋根から落ちても、あなたの家が血を流した罪に問われることはない」(申命記22:8)と書かれています。屋根ははがしやすく、また簡単に修理できる構造になっていて、その割には丈夫な造りになっているそうです。長年の生活の知恵です。
2. あなたの罪は赦された
主イエスの許にお連れしさえすればと言う4人の信仰が主の御心を動かしました。主はその信仰を見て中風患者に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と赦罪の宣告をして下さいました。ある人は「中風という病気は不摂生な生活にその原因がある。だから主は先ず彼に罪の赦しの宣告をなさったのだ」と解釈します。しかしその解釈には無理があります。もし主がこの人の病気そのものに問題があったのであれば、ここでの「罪」は単数形で表されたことでしょう。それに、中風と言う病をそのような偏見をもって考えることの方が問題だと思います。主はここではっきりと「あなたの(数々の)罪は赦された」と言って下さったのです。特定のあの罪、この罪というのではなく、この人が生まれてから今日までの全ての罪に対して及ぶ赦罪の宣告と理解する事が出来ます。主の御許に近づく者の為には、赦されない罪は一つとしてないのです。しかも驚くべき事にこの患者は自分の方から一言も罪の告白をしていません。それなのに主は一方的に「あなたの(数々の)罪は赦された」と言う判決を下しました。使徒パウロは「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)と言っています。神の恵みが先行してその応答として信仰が芽生えます。これが救いの出来事です。
私たちが初めて教会に来た日のことを思い出しましょう。私たちはまだ罪人であるという認識もありませんでした。従って自分の方から罪を告白する等考えてもいなかったのです。それなのに、講壇から「あなたの罪は赦されている」という主イエス・キリストのメッセ−ジが私たちの耳に飛び込んできました。これが神の恵みです。イエス・キリストは全世界が自分の罪を認めたから十字架に上げられたのではありません。世界がまだ罪の何たるかを知りもしない先から「父よ、この人達をお赦し下さい。この人達は自分が何をしているのか分からずにいるのです」(ルカ22:34)と執り成し、全世界の為に十字架に上げられて下さったのです。人類に対する神の怒りが燃えている最中に、その罪の代償として御子イエスは私たちの為に罰せられて下さいました。ここに愛があります。愛する兄弟姉妹。皆さんの中に、救いの確信がないと言う人がおられますか? あなたの罪はもう赦されているのです。神の恵みは十分にあなたの霊と心とからだに染み込んでいます。あなたの為すべき事は「私は救われている」と確信し、神に感謝と讃美を献げる事です。
3. 讃美しよう
この時会衆の反応は二つに分かれます。先ず「あなたの罪は赦された」と言われた主の御言葉を冷ややかな心で聞いている一団がいます。ファリサイ派の人々と律法の教師達です。彼らは集会の一番前に陣取っていました。しかしそれは主の御言葉に聴き従う心を持っていたからではなく、説教者の批評をする為でした。教会の成長が伸び悩む原因はどこにあるのでしょうか。メッセ−ジを取り次ぐ牧師が先ず謙って主の御言葉に従順であるかと問われます。信徒が礼拝のメッセ−ジをどのような思いで聞きながらベンチに座っているかが問われます。「謙遜と従順」に勝る祝福の道はありません。ファリサイ派の人々と律法の教師達は主イエスのメッセ−ジを聞くにあたって自己流の解釈を捨てていませんから、メッセ−ジの意味を正しく捉えることが出来ません。彼らは主の御言葉に冷ややかな反応を示しました。「ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(21節)と。しかし主は言われます。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(24節)と。この御言葉の真意は「人をさばく権威は神以外にない。そして私はあなた方をも赦す」と言うことです。神は、人と人が互いにさばき合うことを嫌いますが、人と人が互いに赦し合うことを喜ばれます。
次に別の一団があります。会衆です。彼らの反応は素朴ですが、驚きの焦点がぼけていると、福音書記者は言います。どこがぼけているのでしょうか。彼らは主が赦罪の宣告をなさった時目立った反応を見せませんでしたが、病を癒された瞬間どよめきました。現代人にもこの傾向は見られます。キリスト教は御利益宗教ではないと言いながら、例えば伝道集会で救いを受け入れて決心した人を見ると「良かったね。おめでとう」と口では言いますが、それ以上の反応は見られません。しかし、もしそこに不治の病と言われていた人の病が奇跡的に癒されたと知ったら、皆さんはきっと「今日、驚くべき事を見た」と言うでしょう。主は私たちに「驚くべき事を見た」と言う順序が違う、と言われます。勿論病の癒しも神の大いなる御業として感謝し、讃美しましょう。けれども肉体の癒しは一時の喜びですが、罪からの救いは私たちの滅び行くべき霊が「永遠の命」を賜ったのですから、それは更に大いなる奇跡です。それこそ最も大いなる喜びであり、最も大きな驚きでなければなりません。この中風の患者は、ルカでは「神を讃美しながら家に帰って」(ルカ5:25)行きました。彼は癒された喜びもさることながら、救いに与ったことをこそ喜んだのです。神への讃美はこの世で終わる課題が解決された時以上に、罪の赦しと救いの命を賜ったと確信できた時にこそ献げるべきではないでしょうか。
最後に私がいつも思っていることを皆さんにもお伝えします。それは礼拝や集会で、初めの祈りの時「この礼拝、集会が無事終わりますように」等と祈らないでほしいのです。悪魔が安心して居眠りしていられる程何事もない礼拝や集会であってはならないのです。むしろ悪魔が歯ぎしりせずにいられないような集会、偽りの平和が破られるような集会であってほしいのです。そして「今日、驚くべき事を見た」と神を讃美しながら家路についてほしいのです。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。
今朝、私たちは実に驚くべき主の御言葉を見ました。4人に運ばれなければならなかった病人が、自分の足であなたを讃美しながら家路についたというのです。この奇跡は今この瞬間私たちの内にも起こりました。私たちもまた多くの友人、或いは家族、クリスチャンの信仰に支えられてこの礼拝に来ることが出来ました。そして与えられた聖書の御言葉を通して、あなたがどんなにこの私を愛して下さっていたかを知りました。私はこの世にたった独りぼっちと思っていましたが、いつもあなたが私と共にいて下さっていたことを知りました。そして「あなたの罪は赦された」と宣告して下さいました。これに勝る奇跡はありません。ですから、私も今あなたに申し上げます。「あなたは私の救主です」と。あなたを心からほめたたえます。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。