主日礼拝メッセージ
「新しい革袋に」
(マタイ福音書9章17節 )
- メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
「新しいぶどう酒は新しい革袋に」と主は言われます。古い革袋のような人とはどういう人でしょうか。この物語の発端はある人びとの主イエスに対する非難めいた問いかけ(どうして断食しないのか)からでした。彼らはとても熱心な求道者でした。断食というのは、罪を悔いる心から出てくる行為です。「私たちはこんなに真剣な日々を送っているのに、あの人たちはなんと良い加減な生き方をしていることか」というイライラが募り、ついに怒りが口をついて出たという所でしょうか。
しかし主イエスは「今はめでたい時、喜ばしい時だ。どうして断食などしていられようか」と反論されました。マタイとその仲間が主イエスの招きと救いの御言葉によって心から悔い改めて、イエスに従う決心をしたからです。教会とは「イエスに招かれた群れ」という意味です。彼らはイエスによって新しい心に造り変えられました。キリストの弟子とされて、人は初めて新しくされるのだということを彼らは身をもって体験したのです。主イエスは御自分を避難する人々に、「あなたがたも、真剣に罪を悔い改めるのであれば、その罪を赦す権威のあるわたしの下に来て、わたしによって新しい革袋のような信仰の人に造り変えられる必要がある」と招かれました。古い革袋(自己義認)のままで神に喜ばれることはできません。今あなたも心謙ってイエスの下に来て下さい。
【本 文】 「新しい革袋に」
救われたマタイが友人を招き、主イエス・キリストと共に愛餐の時を持っていることを快く思わなかったファリサイ派の人たちとの論争に一応の決着を見たのも束の間、今度はヨハネの弟子達から「どうして断食をしないのか」と詰問されました。これに対して主イエスは、今は断食をしている時ではないことを3つの理由をもってお答えになりました。今朝はこのやりとりから、聴き取るべきメッセ−ジは何か、心を開いて耳を傾けることにしましょう。
1. 今は祝うべき時
マタイとその仲間は主イエス・キリストの招きを受け、罪を悔い改めて信じ、従う決心をしました。それは神の御前に「大きな喜び」(ルカ15:7,10)です。教会誕生の瞬間です。「教会」(ギリシャ語「エクレーシア」)とは「主に呼び集められた群れ」という意味だからです。一方ヨハネの弟子達は何とかして自分の力で信仰を研ぎ澄まされたものにしようと、一生懸命身を律しながら厳しい訓練に明け暮れていました。自力本願の宗教観に立つ真面目な求道者です。彼らにとって、イエスのなさりようはどうにも理解できなかったのです。「私たちはこんなに真剣に神と向き合い、罪の悔い改めの証として、折にふれて断食をしているのに、イエスとイエスの弟子達は何と良い加減な生き方をしていることか」とイライラが募り、ついに怒りとなって口をついて出たと言うところでしょうか。しかし主は「今はめでたい時、喜ばしい時だ。どうして断食などしていられようか」と反論されます。 旧約聖書の時代から神とイスラエルは夫婦のような関係にあると教えています。勿論夫は神であり、妻はイスラエルです。主イエスはこの教えを更に深めて、今ご自分を非難する人たちに、マタイとその仲間とのこの交わりの時こそ「花婿」であるキリストと「花嫁」である新しいイスラエル、即ち教会とのめでたい婚宴の時である。どうして悲しい顔をして断食などしていられるものかと言われました。
2. 祝いに相応しい服装を
婚宴に出る人はその場に相応しい服装を整えようと努めます。しかしここにその礼服が古びてしまい、所々虫食いの孔や、ほころびが目立って弱り果てている人がいます。何とか間に合わそうと、別の布で継ぎ当てをしたのは良かったのですが、あてがった布の方が新しく、足を入れたり、袖を通す度に却って破れがひどくなり、もうお手上げだというのです。この譬えはヨハネの弟子達のことを指していることは明らかです。彼らの先生であるヨハネとは福音書の始めに紹介されていたバプテスマのヨハネのことです。バプテスマのヨハネは着る物と言い、食べる物と言い、実に質素な生活をしていました。ですからその弟子達もバプテスマのヨハネに倣って粗食に甘んじ、しばしば断食を励行していたのでしょう。勿論律法にも毎年第7の月の1日に「贖罪日」とも「苦行の日」とも言われている断食の必要は確かに書かれています(レビ記23:23−32)。実際断食はいつしても良いですし、何回しても良いわけです。でもそれを自慢の種にしたり、人に押しつけることではないのです。ましてや断食という宗教行為を勲章のように見せびらかせて、人をさばく道具に利用するなどもっての外です。既に主ご自身マタイ6:16−18で「人に見られないようにしながら、見えないところで見えないことを見ておられる神の御前で断食をしなさい」と戒めておられます。自分の価値観が絶対であるという自信過剰が、いつの間にか古くなった衣服のように、新しい戒めである神の愛と、それをもたらした主イエス・キリストを受け容れる柔軟さを失わせてしまうのです。
3. 祝いの席に備える葡萄酒
ユダヤでは、結婚の祝い事に葡萄酒は欠かせません。問題はこのめでたいお祝いの席にすぐに間に合うようにと質の良い葡萄酒が備えられているかどうかと言うことです。ヨハネ2章のカナの婚宴でも、予想を超える祝い客の数に、葡萄酒が足りなくなったお話があります。しかしここで問題になっているのは、いざという時のために葡萄酒を宴席に運ぶ革袋の品質です。昔は動物の首をはね、肉も骨も内臓もみな取り出して、それを革袋にしていたそうです。しかしそれは時間と共に古びて弱くなります。反対に葡萄酒の方は時間と共に発酵するエネルギーを増して行きます。そのアンバランスが革袋を破裂させてしまうのです。だから新しい葡萄酒には新しい革袋が必要なのです。聖書によれば、神と人との関係は他人行儀なものであってはなりません。時に親と子、時に夫と妻のような親密な関係にまで深められていかなければなりません。だから昔から人はそれぞれの宗教観、神観でこの神に近づこうとしてきました。ファリサイ派の人々もバプテスマのヨハネの弟子達も自分なりの理解でこの神に近づこうと努力してきましたが、主イエスの目にはどの人もその心が却って神から遠く離れています。神が私たちに注ぎ入れようとしているものは、私たちの予想を遙かに超えるエネルギーを持っています。それは愛というエネルギーです。この爆発的な力を持つ葡萄酒を受けるには真新しい入れ物が必要です。しかし私たちには、そのような入れ物は備わっていないのです。人生の改善や改良ではだめなのです。自分の努力や修練で私たちの人生を新しくすることは出来ません。自分の力によっては不可能なのです。神がその独り子を世に遣わされたのは、古びてしまった革袋のような私たちを全く新しく造り替えるためであったのです。そんなことができるのでしょうか。人には出来ませんが、神には出来ます。神には何でも出来るからです。自分の努力をやめて、神に私たちの全てをお任せするときに、神はそれを可能にして下さいます。その実例がマタイとその仲間達の新しい生活です。神が私たちに求めておられることはただ二つ、悔い改めと従順です。
今一人実例をご紹介しましょう。昨日私と妻は一姉妹のお供をしてある墓地へ行って参りました。いわゆる墓前祈祷の時を持ったのであります。詩90編を読み、そして祈り合いました。辺りには沢山のお墓があり、墓参者も大勢行き交っておられました。どの人も草を抜き、墓石を洗い、美しい花を供え、線香に灯をつけておられました。それらの芳(かぐわ)しい香りが一面に漂っていました。だがそのような中で姉妹は花を一輪手向けるだけの慎ましい墓参をなさいました。これまで姉妹は何十回となく、この石碑の前で掌を合わせる一時をもたれたことでしょう。しかし今年は同じように石碑の前に立ちながら、今年はこれまでと違うものを感じておられたことと思います。石碑は昨年と同じ位置に、同じように立ち続けています。もしそこに彼女を知る人がいたら、その人の目には昨年までの彼女と何ら変わることのない姿として、今年も映ったことでしょう。しかし今年は違います。何が違うか、今年はそこに主の御言葉が聞こえたのです。主が御言葉を通してそこに臨在して下さっていました。昨年と違うその人がそこに立っていました。かつては主イエス・キリストを知らなかったこの姉妹が今は主イエス・キリストを知り、いや主イエス・キリストに知られていることをはっきりと信じておられるのです。この人こそ神から賜った新しい霊の服を身につけ、新しい革袋として、新しい主の豊かな救いの恵みを受ける者とされているのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント5:17)。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。あなたは実に不思議なことをして下さいます。私たちは自分ではどんなに努力しても自分を変えることが出来なかったのに、私たちが、私たちの側近くおいで下さった主イエス・キリストに自分のをあるがままを明け渡したとき、あなたは私たちを全く新しく生まれさせて下さいます。私たちはかつて穴のあいた古い洋服のような人生でした。自分で辻褄合わせをしては、つぎはぎだらけの人生を生きる者、またあなたの愛と赦しを地面にどんどんこぼして台無しにする穴のあいた革袋のような人生でした。しかし今は違います。あなたが「わたしに従ってきなさい」と招いて下さったからです。私たちは今悔い改めます。あなたに従います。これからの人生を自分のためにではなく、あなたの栄光のためにお用い下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。