- メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
今日は「母の日」です。一年に一度「お母さんを大切にする日」と、子どもたちはお遣いに行ったり、家の手伝いをしたり、肩を叩いたりと忙しいことでしょう。その珠勝な姿にお母さんたちもついほろりとさせられるのです。
さて、この箇所はイエスの母マリアの回想と言うことができます。当時イエスは多忙の日々でした。それこそ寸暇を惜しむ仕事ぶりに、世間は「気違いじみている」とか、「悪霊に憑かれているのでは」と悪い噂をしていました。母マリアは息子イエスを気遣って呼びに来たようです。その時イエスは「わたしの母とは誰のことか」と取り次ぐ人に問い返し、続いて「神のみ心を行う人こそ真の家族だ」と諭されます。
クリスチャンが周囲から言われる言葉に「信仰も良いが程々にな」があります。それでも熱心に教会通いを続けると「教会と家とどっちが大切か」と非難は増すばかりです。その時クリスチャンは苦しみます。しかし主イエスの御言(みことば)をしっかり聴くと、心は平安になります。神の愛は普遍です。神のみ心は全ての人が愛し合うことです。小さな群である血肉(家族)も、この世界も神にとっては等しく愛の対象です。天の父なる神の家族を愛する場として教会はあるのです。
【本 文】 「わたしの母、わたしの兄弟」
ただ今子ども達に「母の日」の由来をお話ししました。これからも毎年伝え続けたいと思っています。母の日は子どもがそれぞれ自分たちの親の愛を通して造り主を覚えることに、一番の目的があるからです。所で今日の聖書テキストは、私がこの教会に着任して最初の礼拝で読んだものでした。1997年10月26日のことです。その時は「神の家族」という主題でした。自分の生い立ちから特に救いの証と共に、牧師と教会の関係を導かれるままに語りました。覚えておられるでしょうか。このようにクリスチャンとは、神が自分に為して下さった素晴らしい恵みの御業、救いの出来事を誰かに語らないではいられないのです。これを証と言います。
聖書の中にもアブラハム、モーセ、ダビデ、またペテロ、パウロ等イエスの弟子達の証が見られます。主イエスの母として選ばれたマリヤも折に触れて実に貴重な証をしてくれていますが、今日の箇所もその一つと言うことが出来ます。彼女はここで「私はイエスから家族とは何かを学んだ」と証をしているのです。マリヤは息子イエスの評判が余り良くないので気が気でなりません。毎日のように大勢の人が家に押しかけてきては救いを求めるのです。お陰でイエスとイエスの弟子達、それに家族までがおちおち食事もとれない有様です。今日も今日とて町の真ん中で大勢の人に囲まれて教えておられるイエスを見て、今に大変なことが起こりはしないか、弟や妹にまで害が及びはしないか、そこまで考えたかどうか分かりませんが、「悪霊に憑かれている」、「気が変になっている」と言う世間の噂を耳にして、取り押さえに来ました。このような経験は多くのクリスチャンもまた経験するものです。神の愛に目覚め、信仰が燃やされてくると一生懸命伝道したり教会奉仕をするようになります。すると大抵家族は「キリスト教も良いが程々にな」と言うようになります。それでも熱心に教会通いしていると、「教会と家とどっちが大事だ」と言われます。その時あなたはどうしますか、と神さまはあなたにチャレンジします。これが今日の箇所なのです。
私も似たような体験をしました。旧約聖書のホセア書、イザヤ書から神さまの迫りを感じて献身すべきかどうするか迷い苦しみました。私のような無学な者でなくても、もっと優秀なクリスチャンが沢山いる。牧師にはそう言う人がなればよい、と逃げても逃げてもこの御言が私の24時間につきまとって離れません。とうとうギブアップして「分かりました。あなたのご命令に従います」と答えて献身を言い表した途端、神さまは手のひらを返したように、厳しい取り扱いをされるのでした。母や兄弟、職場の関係者に「私は神学校に行き、牧師になるようにと神さまから命じられた」と言うと、母はぽろっと大粒の涙を流して嘆き、兄弟は何を血迷ったことを言うかと一喝します。職場からは「今君がやりかけの仕事を中途でおっぽり出すなど無責任だ。それでもクリスチャンと言えるのか」と非難される始末です。正直言って自分は本当に神さまの声を聴いたのか、実はそう思い込ませる悪霊の誘いに過ぎないのではないか。職場で任された仕事、一旦は引き受けた大事な仕事を中途半端なままにして何がクリスチャンか、献身か、と非難されても言い返す言葉もありませんでした。些か決断が鈍りました。ただ祈るのみです。それは祈りと言うより「未信者につまずきを与えてあなたに献身も何もあったものではありません。神さまどう責任をとって下さるつもりですか」と言う恨み言でした。
あれも大事、これも大事、そのような狭間でクリスチャンはこの世に生かされているのです。両方を選ぶことが出来るならこんなに楽なことはありません。しかしそれは許されないのです。「あれもこれも」ではなく、「あれかこれか」を選び取らざるを得ないところにクリスチャン生活の厳しさ、苦しみがあるのです。ましてや先ず家族か、先ず神に仕える道を選ぶかとなると、白髪がどっと増えます。ストレスは最高潮に達します。その時マリヤが聴いたイエス・キリストの御言葉は耳を疑うものでした。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と。イエスは自分たち家族を捨てたのか。少なくとも身内のことより世間様のことの方を優先するのか。一瞬マリヤはめまいを起こしたかも知れません。悲しみと怒りが心の中で激しく波立った事でしょう。次の言葉を聴くまでは。しかしイエスは言われました。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。この後イエスは十字架の上から愛する弟子に母マリヤを託して「これはあなたの母です」と言われました。イエスは決して母マリヤも兄弟もないがし蔑ろにする方ではありません。まさにイエスの言われた意味はここにあります。肉親の親兄弟を愛することも、赤の他人を愛することも主にあっては全く変わりはないのです。この時外の弟子達もそこに居合わせたでしょうが、特に21節は翻訳の仕方にもよりますが、口語訳ではイエスの身内の者が「気が狂ったと思ったからだ」と書かれています。もしその通りであれば、この部分はマリヤを通してしか書けなかったと言うことができます。だからこそイエスは「ご家族があなたを捜しておられます」と取り次いでくれた人に向かってというよりも、母マリヤと兄弟達に、神さまの御前にあって「家族の意義」を考えさせます。
これによって「家族」の語源が「父」から来ていることがこれで分かります。イエスが「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われた意味もこれによって分かります。全ての人は天の父である神さまの御前に家族でなければなりません。自分の家族を顧みないで何が宗教かと言う世の中に謙虚に耳を傾けなければなりません。しかし、神を家族や国家という狭い共同体の中に押し込める考え方は、隣の家に関心を示さない自己中心の人間を創り出します。選民意識という狭い考え方がユダヤ教の今日を形成していると言うことが出来ます。シオニズムは一歩間違えると「選民イスラエル」と言うナショナリズムに発展して行きます。これはイタリアのファッショ、ドイツのナチズム、日本の大和民族主義と何ら変わりないきわめて危険な発想です。三国人発言は将にその象徴と言えないでしょうか。だから私たちは最早教会を大事にするのか、家族を大事にするのかと言う非難の言葉の板挟みになっても、もう苦しむことはありません。私たちは神さまの御心を行うことを第一にすることがイエス・キリストにあって求められているからです。イエスのみ教えに従いさえすれば全ては解決します。私たちの神はあらゆる者の源なる父なのです。教会を愛することは、血肉の家族を超えた全ての人を愛し、全ての人に仕える尊い道なのですから。マリヤはこの経験を元に機会ある毎にイエス・キリストを証しました。だから私たちは福音書の中にこの物語を見出すことが出来るのです。
彼女の学んだもの、それは「私の家族」から「神が独り子をさえ与えるほどに愛して止まない私たちの家族」です。だから私たちも血肉を超えた家族、民族や国境の壁を超えた主イエス・キリストにある家族を愛することを学ぶ場として教会はあるのです。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。今日の御言葉を感謝します。私たちはこれまで狭い範囲での血肉の家族にしか目が向けられていませんでした。しかし、天のお父様の目の前には、全てがあなたの子どもであり、また全ての人は互いに兄弟姉妹です。主よ、私たちは誰彼なく愛して下さるあなたに倣って互いに愛し合い、受け入れ合う神の家族として交わりを深めることが出来ますよう、私たちの心を清めて下さい。
今日は母の日です。主にあって教会の全てのお母さんに心から感謝します。彼らの健康を祝してください。
私達の主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。