- メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
ここに2つのいやしの奇蹟物語があります。最初に目の見えない二人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」とすがりついてきました。「わたしにできると信じるのか」と問い返すイエスに、「はい主よ」と彼らは答えました。そこでイエスは「あなた方の信じているとおりになるように」といやしの御業を行って下さいました。続いて32節に「口の利けない人」が連れてこられました。恐らく見えるようにされた二人が、その喜びを語ったので、「それでは私もイエスの所へ」と頼まれて連れられてきたものと思われます。イエスはこの人の求めにも応じて憐れみを施してくださいました。
この物語はマタイ独自の記録です(20章の似た出来事はマルコ、ルカにも見られますが)。ここでは当時障害を持つ人が社会の落ちこぼれとみなされていたにもかかわらず、いかに豊かな信仰の人であったかを世に知らせる為に、またマタイ福音書が書かれていた時代(おおよそ紀元60〜70年、シリアのアンテオケ地方)の人々、特に教会内部の人に教える目的で書かれたものと思われます。今の時代にも大切なメッセージです。私たちは本当に見える目を持っているでしょうか。聞くべき耳、語るべき口を本当に持っているでしょうか。「わたしにできるか」とイエスは問うておられます。聖書から神の声を聴き取る信仰の耳、イエスをキリストと認める信仰の目、「はい主よ」と直ちに告白する信仰の舌を持っているでしょうか。
【本 文】 「あなたを信じます」
ここには2つの「癒し」の奇蹟物語があります。最初に目の見えない2人の人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」とすがりつきました。「わたしにできると信じるのか」と問い返すイエスに向かって、彼らは即座に「はい、主よ」と答えました。イエスは「あなたがたの信じているとおりになるように」と癒しの御業を行って下さいました。続いて32節以下に「口の利けない人」が連れられてきました。恐らく見えるようにされた2人がその喜びを触れまわったので「では、わたしもイエスさまの所へ」と案内されてきたのでしょう。イエスは彼の求めにも応じて悪霊から解放して下さいました。
この2つの物語はマタイ独自の記録です(20:29−34にはよく似た物語があり、マルコ、ルカにも見られますが)。ここでは障害を持つ人は社会の落ちこぼれと見なされていたあの時代にもかかわらず、いかに信仰豊かな人がいたことかを是非とも世に知らしめるために、そして著者マタイの時代の人々(おおよそ紀元60−70年、所はシリアのアンテオケ地方)、特に教会内部の人々に教える目的で書かれたものと思われます。そして今の時代にも当然語られている大切なメッセ−ジです。私たちは本当に見る目を持っているのでしょうか。聴くべき耳、語るべき口を持っているのでしょうか。「わたしにできるか」とイエス・キリストは問うておられるのです。聖書から神の声を聴き取る耳、イエスをキリストと認めることの出来る信仰の瞳、「はい主よ、あなたを信じます」と直ちに応答することの出来る信仰の舌を持っているのでしょうか。
私が西南学院大学神学部の事務室で働いていた頃のことです。1人の全盲の神学生が入学してこられました。入学が許されて彼が最初にしたことは寮の中、食堂まで、私の部屋、教室、図書室、敷地内の教授宅と言うように、これから生活する全ての空間を歩きながら、歩数で距離とそれぞれの位置とを頭に入れておられました。一番先に覚えたのは食堂です。腹が減っては戦が出来ぬと言います。次に覚えたのは私の執務室です。毎月の奨学金を受け取る所と先輩から教わったからです。そんなに明るい性格の彼にも悩みはありました。外を歩いていて、交差点にさしかかったとき、信号が青になってもそばに人がいなければ、彼には分かりません。30年も昔のこと、今のようにどの横断歩道にも盲人用のオルゴールがあるわけではありません。渡ること自体命がけです。物事をいつも前向きに考えることの出来る彼にも、どうすることも出来ない悩みがあったのです。正面の信号が青になっても、また信号のない道を渡る時にはなおのこと、車が途切れてもそれを教えてくれる人がいなければ、一日中でもそこに立っていなければなりません。そのようなハンディを少しでも克服しようと、全身を耳にして僅かの音にも敏感でした。また匂いや感触で見えない目を懸命に補っていました。でも、五感に頼っていたのでは神さまが見えないと言うのが彼の口癖でした。心の目と心の耳を開かなければ人々の心の悲しみも叫びも見えない、聞こえない。霊の目、霊の耳を開いて聖書を読まなければ神のみ声が聞こえてこない。神のみ声を聞こうとしないで読む聖書は三文小説よりも詰まらないものになってしまう。と教えてくれました。
手話サークルで親しくなった聾唖の方々も同じです。彼らは、耳は聞こえませんが、実に豊かな手話の文化を持っています。例えばある人が「昨日秋葉原の電気店に行って来た」と報告をしたとします。私が「ふうん、それで何で行ったの?」と聞き返したら、きっと相手は怪訝な顔をするでしょう。でもこちらは行った目的を聞いているのではなく、どういう交通手段で行ったのかを聞いているわけです。耳から聞こえてくる言葉だけに頼るとこのように結構不便なのですが、手話ならどう言う交通手段で行ったのか、それもちゃんと手話で説明してくれていますから聞き返す必要がありません。口が利けないとか、聞こえないのは彼らだけではないのです。ものが言える、聞こえると言いながら、きちんとしたコミュニケーションがとれていない事ってよくあります。聞くべき本当の声を聞き逃しているのは、実は私たちの方なのです。口が利けないのは彼らではなく、私たちなのです。「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」と使徒パウロも言っています(ローマ10:17)。
聖書が難しい文章だから分からないのではなく、聖書を生ける神の言葉と信じて読まないから分からないのです。信仰とは一体なんでしょうか。これについては聖書そのものが明快に答えてくれています。そこを読んでみましょう。
「さて、信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1 口語訳)
この世に生きる私たちには、神にあれもしてほしい、こうもあってほしいと望んでいる事柄は実に多種多様です。しかし私たちが最も重要なこととして何にもまさって抱くべき希望、それは罪から救われて神と和解することです。まだ見ない事実とは、キリストの再臨と、イエスを信じる全ての者が、生きている時は勿論死んだ後も神の御国の国民とされることです。あの盲人や聾唖者がイエス・キリストに出会って「あなたを信じます」と大胆に告白して神の憐れみを受けたように、私たちも今「イエスよ、あなたを信じます」と告白して主の憐れみにより頼みましょう。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。「わたしにそれができると信じるか」とあなたは言われます。あなたにはできないことは一つもありません。あなたが私たちのためにして下さることを妨げているのは、実に私たちの不信仰のためです。しかし、今こそあなたの促しに勇気を得ましたから、私たちは今大胆にあなたに申し上げます。はい、主よ、あなたにはそれがおできになると信じます」と。しかし、私たちの願いもまた私たちの思いのままにではなく、あなたの御心のままにあしらって下さい。
私達の主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。