【礼拝メッセ−ジ要約】                           2000年7月23日

伝道者の苦悩と恵み

マタイ10:26-33

ガラテヤ4:12〜16

メッセージ:高橋淑郎牧師

 先日遠くに住む一姉妹から留守番電話が入っていました。「入院先の病院で相部屋の姉妹方に福音を語る機会が与えられ、退院したら一緒に教会へ行こうね、と約束した」と言うことです。病気そのものは悲しい現実ですが、もし彼女が病気になることも、その病院に入院することもなかったら、病室の方々に福音が届けられることはなかったかも知れません。神は有名な伝道者ではなく、教会の牧師でもなく、一人の姉妹を福音の証人として用いるために、あの病室に遣わされたのだと言えないでしょうか。あの病室の女性たちのために主が選ばれた伝道者はまさにこの姉妹でした。

 以上は伝道の成功例です。しかしいつもこのように良い結果が得られるとは限りません。ガラテヤの人々と使徒パウロのような緊張した関係に立たされることもあるのです。ガラテヤの人々は最初パウロに対してとても親切でした。やがてキリストを信じる人が増えガラテヤ教会が誕生しました。所が彼が留守中、別の教えを吹き込む人が入り込んできました。それ以来パウロと教会の関係は冷えて行きました。パウロは自分が否定されたことよりも、自分をお遣わしになった主イエスが否定されたことを深く悲しみ、心を尽くして「真理に目覚めてくれ」と訴え続けました。それがこの手紙です。パウロのように福音を伝えても遮られることがあります。激しい言葉が返ってくることもあります。しかし主は「恐れるな。語り続けよ、黙っているな。わたしがあなたと共にいる」(使徒18:9)と背後で支えて下さるのです。

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【礼拝メッセ−ジ】                             2000年7月23日

伝道者の苦悩と恵み

マタイ10:26-33

ガラテヤ4:12〜16

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今から大凡2千年前、イエス・キリストの父なる神さまが聖霊を通してこの地上に教会の基礎を据えて下さいました。使徒とされた弟子達はエルサレムに始まり、ユダヤ全域、そしてやがて地中海世界へと伝道の情熱を燃やしていました。伝説によれば、東はペルシャからアフガニスタン、そしてインドに至るまでも福音を伝えていたと言われています。その頃彼らはすんなりと行く先々で受け入れられたのか、それともどんな抵抗を受けたのか、そのひとこまを知る手がかりがこのガラテヤの信徒への手紙です。

 人間は誰でも優しい一面があります。しかし優しさは時として本物を見失う危険を孕んでいます。使徒パウロは初めて小アジアのガラテヤ州に入って伝道を展開しました。彼はそこで目の病を負いました。慢性か、急性かよく分かりませんが、その症状はかなり重く、大抵の人はパウロを一目見て後ずさりするようなものでした。しかしこの土地の人々はそれを厭いもしないで、親身になって介抱してくれたのです。その甲斐あって彼は癒されました。それが切っ掛けとなって福音を伝える道が開かれ、彼らはひとたびイエスを救主と信じ、受け入れ、ガラテヤ教会が生まれました。所がパウロがそこを離れている間にユダヤ教出身の教会指導者が入り込み「あなたがたはイエス・キリストを信じただけでは不十分だ。モーセの律法を守り、ユダヤ人のように割礼を受けないと救われない」と間違った教えを吹き込んでしまいました。ガラテヤの人々は持ち前の優しさで、その教えに素直に従いました。気が付くと最初パウロから伝えられた福音の本筋から随分遠くなってしまっていたのです。パウロはそうとは知らず何年ぶりかでこの地方を訪れて教会の礼拝に出席し、いつものように伝道メッセ−ジを語ると、その反応は実に冷ややかなものに変わっていました。そしてモーセの律法、特に割礼の重要性を説かないパウロを非難し始めるではありませんか。使徒パウロは渾身の力を込めて「イエス・キリストの十字架の恵み、これを信じ受け入れる以外に異邦人の救われる道はない。これが真理だ」と書き送ったのがガラテヤ人への手紙です。

 聖書の真理を語ることは大変なエネルギーを必要とします。語れば語るほど人々の心が冷えて行くのを感じる時は尚更です。伝道者が孤独を感じるのはこのような時です。これは何も牧師のような立場の者だけが経験するのではありません。伝道者とはキリストの弟子とされた全ての者、全ての教会員を指します。伝道者や牧師以外のクリスチャンもまた未信者の満ち溢れる場に遣わされます。むしろ伝道者や牧師の手の届かない所にこそ遣わされます。先日遠くに住むある姉妹から留守番電話が入っていました。それによると、入院先の病院で同じ部屋の姉妹方に福音を伝えるチャンスが与えられて、退院したら一緒に教会へ行こうねと約束したと言うことでした。これなどはその人が入院したお陰で、その病室の人に福音が届いた幸いな実例です。勿論病気になったことはアンラッキーですが、もし病気にならなかったら、或いはその病室の人に福音が届けられる機会はなかったかも知れません。神は伝道者や牧師ではなく、一人の姉妹をその病室に遣わされたのです。伝道者は将にあの姉妹であり、そしてあなたなのです。

 ところが先程のパウロのように福音を伝えても遮られることがあります。激しい言葉が返ってくることがあります。孤独です。寂しいです。辛いです。悲しいです。しかし本当に孤独でしょうか。主は言われます。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と。反対に私を受け入れない人は私を受け入れないのではなく、私を遣わされた方を受け入れないのです。どうして孤独なのでしょうか。私が受け入れられるときも、私が受け入れられなかったときも私は一人ではないのです。常にどんな状況の中にもイエス・キリストが共にいて下さっているのです。パウロはこうした自分の経験から伝道者としての一つのあるべき姿勢を学んだと言います。

 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(口語訳、ガラテヤ2:20)と。そしてこのみ言葉言葉を受けてある牧師は「恥は我がもの、栄光は主のもの」と心に刻み込んだそうです。

 キリスト教の信仰は御利益信仰ではありませんが、恵みの賜物は約束されています。語る器も、聞く者も、もし神の御旨に沿った関係に立つなら、双方同じ祝福に満ちた報いが与えられるのです。最後に使徒パウロの次の言葉に耳を傾けましょう。

「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい」(口語訳、ガラテヤ6:6)

 

 今年の教会サマーキャンプは、8月5〜6日の一泊二日で予定されています。今回のキャンプの中心は「会堂・墓地建設の具体化」です。前半は交わりを中心に、後半は御言をじっくり聞きながら、会堂・墓地を建てるにあたって、神が私たちに求めておられることは何なのかを語り合うことになっています。会堂建築は確かに大きな事業です。でも会堂・墓地建設は教会の歴史におけるほんの通過点に過ぎません。むしろ会堂・墓地を建てた後、その会堂・墓地をどのように用いるのか。この建物を通してどのような伝道を展開するのか、そこまで視野を広くし、視線を遠くに見据えるキャンプでありたいと願っています。ですから今年のキャンプはとりわけ重要です。教会の将来がかかっていると言って良いほどです。どうか、時も宝も身体も皆ささげる思いで何よりも優先させて参加して下さい。

 

 祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

あなたの御子、私たちの主イエス・キリストは天に上げられる前に「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:19〜20)と、教会に大宣教命令を残して行かれました。教会は今もなおこの宿題に追われる日々です。しかしこれは楽しい宿題です。一人の魂がイエス・キリストに見出され、求道者とされ、そして救いに与る瞬間をこの目に見ることが出来るからです。この世は大人も子どもも目標をなくし、価値観が定まらず、人生の意味を見失っています。このようなとき、あなたは今日、教会に生きる者を御言で押し出そうとしておられます。この世に出て行って、わたしの用意している祝福を共に分け合いなさいと。会堂・墓地建設の実現のために立ち上がれと促して居られます。私たちは今ここから喜んで遣わされて参ります。主よ、私たちを用いて下さい。

主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

 


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