【礼拝メッセ−ジ要約】                           2000年8月20日

平和で聖い生活を

ヘブライの信徒への手紙12:14〜17

メッセージ:高橋淑郎牧師
 

【要 約】                  

 本書の著者はマタイ5:8〜9を想い起こさせようとして「平和と聖なる生活」の必要を説きます。「平和」は能動的な言葉、「聖化」は受動的です。これは私たちの信仰生活に於ける車の両輪とも言える重要な教えです。

 しかし残念なことに今日キリスト者の中には平和のために熱心なキリスト者を「あれは社会派だ」と揶揄し、清めを強調する人を指して「清め派だ」となじります。残念です。そのような決めつけは主にある愛から遠いのです。神は聖書を通して「平和と聖化」は決して切り離すことのできない福音の真理であると教えておられます。御霊によって内面の清めを体験した人は神との平和(和解)を得ています。神との平和を得た人はこの世の1人でも多くの人々にこの「平和」を得させたいという情熱に駆られて宣教(平和のメッセ−ジ)に出て行く者と変えられます。「平和」はただ戦争のない状態を言いません。地球環境の汚染を食い止める働きに、弱者が置いてきぼりにされる状況を座視しない働きに、踏みにじられた人をそのままにしない働きに参加することが平和のメッセンジャーとしての重要な働きです。またこのような働きに参加する人が求められています。

 この世はエサウのように、一杯の食(欲望)のために、余りにも簡単に長子の特権(神との平和)を売り渡す人が多いのですから。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                         2000年8月20日

平和で聖い生活を

ヘブライの信徒への手紙12:14〜17

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 8月はこの国にとって特別の意味を持つ月です。それは即ち平和の意味と、その価値を改めて認識する月でもあると言うことです。今日与えられた聖書テキストを通してこの事を共に学びたいと思います。

 主は主に従おうとする者に平和のために働くこと、その為に清き心を持つことを求めておられます。しかしキリスト者であっても全ての人と平和に過ごすことは、容易ではありません。この箇所はマタイ5:8〜9を抜きにしては不可能だということです。先ず清められていなければなりません。勿論ここに言う「清め」は何段階もの修行を積んで到達するという意味での清めではありません。仮にそうして到達した清めの自覚は多分その人を益々高慢にする「新たな汚れの発祥地」となることでしょう。或いは汚れたものから遠ざかることで保たれる清めでもありません。それは「差別という新たな汚れを生む」ことになります。清めは人間の基準で測れるものではないのです。原罪を宿す人間がどうして清めの基準を正しく位置づけることが出来るでしょうか。神によってのみ「これが清め」と、その基準を定めることが出来るのです。神は聖なる方だからです。では聖なる神によって定められた清めの基準はどこに行けば見出せるのでしょうか。十字架です。十字架によってのみ人は罪を贖われて清められるのです。それは次のみ言葉によって明らかにされます。

 「こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストはまことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(ヘブライ9:22〜26)と。

 「心の清い人々は、幸いである。、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)と主は言われました。主イエス・キリストの十字架の血潮によって人は初めて清めに与ることが出来るのです。十字架の血で清められた者だけが神と顔と顔を合わせてお目に掛かることが許されるのです。そしてこの清めの経験こそが神との平和を得たという保証と見なされるのです。聖書は言います。

 「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」(エフェソ2:14〜17)と。

 

 以上のように、人は十字架の血潮によって罪からの清めに与り、十字架のキリストに置いて初めて神からの和解を得たと言えるのです。それだけではありません。神との平和を得たとき、人は和解の福音の使者として、全ての人と平和に過ごすことが可能となります。今やキリスト者にとって「平和と聖なる生活」は車の両輪です。しかし残念なことに、キリスト者の中にもこの事で誤解があります。平和のために熱心なキリスト者を見ては、そのような人々を「社会派」と揶揄(やゆ)し、一方聖化を強調するキリスト者を見ると、「聖め派」、また「福音派」と詰り(なじり)ます。このようにお互いを敵視しながら色分けすることは正しいことでしょうか。「平和と聖化」は決して切り離せない。いいえ切り離しては成らない密接な関係にあり、この両者の関係こそ福音の真理なのです。

 清めは他人との比較の中においては決して確立しません。十字架の御前に立ち、清めは神の憐れみによって「受けた」ものであることをきもに銘じるべきです。平和は私たち人間の知恵と努力の果てに確立するものではありません。平和は十字架によって神の方から差し出された和解の徴であることを肝に銘じなければなりません。だから私たちは主に贖われた者として、清められた一人として、平和の使者として一人でも多くの人に和解の福音を届けなければなりません。とりわけ私たち日本人クリスチャンとしてこの8月という重い意味を噛みしめて、朝鮮半島の方々、中国の方々、東南アジアの方々の下に、罪の悔い改めを明らかにして十字架の下で彼らからの和解を求めなければなりません。

 「平和」とはただ戦争のない状態を言いません。地球環境の汚染を食い止める働きに、弱者が置いてきぼりにされる状況を座視しない働きに、踏みにじられた人をそのままにしない働きに参加することもまた平和のメッセンジャーとしての重要な働きです。またこのような働きに参加する人が求められています。

 この世はエサウのように、一杯の食(欲望)のために、余りにも簡単に長子の特権(神との平和)を売り渡す人が多いのですから。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇め、讃美します。

 今日は8月12日、敗戦記念日3日前です。55年前日本は近隣アジア諸国に大きな罪を犯して参りました。しかし目覚ましい経済復興はこの国を傲慢にし、私たちはこの国が55年前に犯した罪をを十分に教訓としているとは言えません。エサウが一杯の食(豊かさ、便利さ)を得るために最も大切なものを簡単に手放したように、この国もまた愛と謙遜、慎み深さという心、あなたこそ真の主、全能の神であることを認めることができないでいます。

主よ、どうかこの国を憐れんで下さい。この国の教会を主にあって真に一つにして下さい。そしてアジア諸国から和解を得るために為すべき事を教えて下さい。平和の福音の使者として宣教の重荷を感じる者として下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願い致します。

アーメン。


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