【礼拝メッセ−ジ要約】                           2000年8月27日

与えられる十字架

マタイによる福音書 10章34-39節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 約】                  

 クリスマスの夜、天の使いは「神に栄光、地に平和を」と歌いました。ところがそのように歌い、喜びをもって迎えられた主イエス・キリストが「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われました。これは勿論世界に軍拡を奨励、容認するものではありません。イエスはどこまでも、「平和の君」(イザヤ9:5、ルカ19:38)です。イエスのもたらす剣とは御言の剣です(黙示録1:16)。

 確かに聖書が一軒の家に持ち込まれると、その時から家の中に分裂が生じます。この世の平和で満足している者は、天の父なる神さまから賜った永遠の平和を憎みます。この剣はまた私たちに、本当に愛すべき者(イエス)と憎むべき者(サタン)の間を切り裂こうとします。本当に愛すべき者を選ぼうとすると、その先は十字架を担うが如き茨の人生となります。十字架は死刑囚自身が刑場まで市中引き回されながら担います。最たる恥辱です。そして行き着く先は死です。重い十字架、恥ずかしい十字架、死の十字架。イエスを信じ告白する者の生涯もイエスと共にこの十字架を担う生涯です。しかしこの生涯は決して敗北で終わりません。十字架を担う生涯の先に約束されているものは復活です。栄光の御国への凱旋です。

ハレルヤ、アーメン!

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                            00年8月27日

与えられる十字架

マタイによる福音書 10章34-39節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 私たちはこの礼拝の中でマタイによる福音書を読んでいますが、10章まで読み進んで参りました。読んでいる内に気が付いたことがあります。それはこの福音にはいくつかの特徴があると言うことです。それは殆どが3つづつに区分されていると言うことです。イエス・キリストの系図は14代(実際にはもっと複雑ですが)づつ3つに区切られています。荒野に於けるサタンのイエスに対する試みも3つです(ルカ4:13には「あらゆる誘惑を終えて」とありますから実際には3つどころではなかったのです)。この10章全体でも主の弟子の道には3つの困難があると書いています。国家との戦い(16〜25節)、宗教家との戦い(26〜33節)、家族の中での戦い(34〜39節)の3つです。

 そして今日のテキストである34〜39節でも「わたしは…のために来た」と主が3度繰り返して教えておられます。これは著者マタイの癖なのかも知れません。けれどもまたこの区切り方において余程重要なことを書くときの癖とも言えます。 主イエス・キリストは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われました。イザヤ書、またルカによる福音書を見ますと、イエスはどこまでも、「平和の君」(イザヤ9:5、ルカ19:38)です。皆さんは少しイメージが違うと思われたかも知れません。主がもたらされた剣とは何でしょうか。ヘブライ4:12〜13とヨハネの黙示録1:16を見てください。主がもたらされた剣とは御言の剣のことです。ある日私は道を歩いていましたが、一軒の怪獣を売る店の前を通りかかりました。沢山の怪獣の中に、口から剣を出している怪獣を見つけました。この怪獣の作者はもしかしたら聖書を読んだことがあるのかも知れません。イエスはその口から剣よりも鋭い身を以て不信仰を切り離す力を持っておられます。平和の主イエス・キリストを心に迎えるためには私たちの心に根付く不信仰という罪が邪魔です。この邪魔する者が私たちの心の中で切り刻まれるのですから、当然痛みを伴います。御言はそのような鋭さをもって読む者に迫ってくるのです。このようにみ言葉は私たちの内なるものの生死を分けるのです。しかしこの痛みを経験することを恐れていたのでは、聖書が約束する「キリストによる平和」を享受できません。

 

 またこの箇所は十誡の第一戒(出エジプト記20:3)、そして復活の主とペトロの対話(ヨハネ21:15〜19)と共通する厳しい迫りを感じます。多少のもめ事はどこの家でも見られます。その家の中に聖書が持ち込まれたことによって、平和が回復するなら、これは幸いなことです。しかし反対のことも起こり得ます。これまで穏やかな家の中に聖書が持ち込まれたことによっていさかいが生じるとしたら、これは悲しいことですが、多くの場合このようなケースの方が多く見られるのです。だからと言って家庭の平和のためにクリスチャンとなったその人が自分の信仰と持ち込んだ聖書を引っ込めてはなりません。

 聖書に「世のことにかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世のことに心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を遣います。」(コリント7:31〜35)とあります。

クリスチャンであっても家族は何者にも替えがたく、また自分はそれ以上に可愛いのです。それ故にこの言葉は重く私たちの心に迫ってきます。主はペトロに、「何者にもましてわたしを愛してほしい。第一の者を第一にして欲しい」と。もし、聖書が持ち込まれたことによってその家の平和が乱されたとすれば、それは聖書に問題があるのではなく、元々その家の平和は神の御心から遠い平和、仮初めの平和でしかなかったのです。そこで今一つ聖書をご紹介しましょう。

 

 「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履き物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10〜18)

 

 肉親の家族と争ってはなりません。彼らの目をふさいでいる悪の霊と戦ってください。神の武具を身に着けて。ここでもう一つ注意したいことは、「神の武具」です。この武具はそのほとんどが身を守るものです。悪の霊との戦いに備えて攻撃用の武器はただ二つです。それは「御言葉」と「祈り」です。悪の霊との戦い方は、キリストを知らない家族に忍耐をもって御言葉を語り続けることです。根気強く御霊の助けを求めて祈り続けることです。イエスでさえ、悪魔と戦うのに、御言葉以外のものを用いては戦われませんでした(マタイ4:1〜11)。

 

 マタイはここで「誰に従うべきか」を明確に証しています。与えられた十字架がどのようなものであっても、あなたはそれを受けて担って行かねばなりません。あなたは与えられた十字架を前にして拒否反応を起こすかも知れません。しかしあなたに与えられる十字架は他の誰のものでもないのです。それはあなたのために備えられていたものだからです。重いでしょう。苦しいでしょう。肩に食い込んで痛いでしょう。孤立無援に感じられて、情けなくなることでしょう。恥ずかしいでしょう。でも、その十字架を担っているのはあなた一人ではありません。実のところ、主もまたあなたの十字架を共に担ってくださっているのです。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

「わたしが来たのは、平和ではなく、剣をもたらすためである」とあなたは言われます。確かにあなたの弟子とされて依頼、私たちの生活は戦いの連続です。自分の十字架を負いなさいとあなたは言われます。こんなに重い十字架を一人では追いきれないと投げ出したくなります。しかしこの戦いをやめては、十字架が重いと投げ出したのではわたしに相応しくないと言う御声もまた胸に響きます。この御声によって私たちは再び勇気を得ました。 あなたはこの御言葉を下さったことによって、この世の様々な戦いを主もまた共に戦って下さっているのだと言うことを知りました。重いと愚痴をこぼす私の傍らで、あなたも私の負う十字架を共に担って下さっていました。主よどうか弱い私を憐れみ、信仰の戦いを最後まで戦い続ける力、重い十字架ですが、これを担い続ける忍耐を、終わりまであなたに忠実であり続ける信仰をお与え下さい。

主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

 


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