【礼拝メッセ−ジ要約】 2000年9月10日
メッセージ:高橋淑郎牧師
「老い」という字を辞典で引くと「年を取っていること、また人」と説明されています。しかし百歳を超えてなお矍鑠(かくしゃく)としている人がいます。一方中年なのに、早や老け込みを感じる人を見ることがあります。「老い」は年齢ではないと言うことです。
気持ちが老け込んでいると、どうしても「昔は良かった」と、過去の繰り言が多くなります。しかし信仰に生きる人は年齢に関係なく、夢を語ろうとします。預言者ヨエルは、世間が勝手に「老人」と呼ぶ人であっても、神の霊によってその人は夢を見、夢を語るエネルギーが与えられます。夢、それは聖書的理解に立つと「希望」です。私に対する神の計画、私を必要として下さる神の御心をはっきり意識できる、そう言う夢を見させていただけるのです。未来を諦めている老人に「あなたの人生はこれからだ」と言って下さるのです。
一方若者には同じ神の霊によって「ビジョン(幻)」が与えられています。若者はとかく自己中心的な将来像を描き勝ちですが、神はその人の人生をもっと祝福しようと、その人のために幸福の設計図を示して下さいます。
今日は長寿を祝い、感謝する礼拝です。何年生きることが出来たという喜びと共に、これから先も夢を語り、幻に向かって神と共に歩む信仰に生かされていることを共に喜びましょう。
「老人は夢、若者は幻を見る」
ヨエル書3:1
2000年9月10日
メッセージ:高橋淑郎牧師
「老い」という字を辞典で引くと「年を取っていること、また人」と説明されています。しかし百歳を超えてなお矍鑠(かくしゃく)としている人がいるかと思えば、中年で早や老け込みを感じる人もいます。「老い」は年齢ではないと言うことです。
日本の昔話の多くは「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました」という書き出しで始まっています。あるところと言われているところも「人里離れたところ」で、今は二人だけの生活をしています。しかし彼らは老いてなお盛んで、切った竹の中から、或いは川の中から拾い上げて切ったた桃の中から赤ちゃんを発見します。彼らはこれぞ天からの授かりものとその子どもたちを立派に育て上げるエネルギーを持っています。彼らはみな元気です。まだまだ若い者には負けない力があります。しかし現実の社会では、例えばマスコミ関係の人が取材先の高齢者に声をかける第一声は孫でもないのに、大抵「おじいちゃん」、「おばあちゃん」です。その言葉の響きには余り畏敬の念が感じられません。この国は何と礼儀知らずな国であろうかと、自らを筆頭に反省させられます。
一方そう呼ばれている高齢の方々はどうかというと、もっと威張ってもよいのにと思うのですが、遠慮深く、慎み深い言葉を若いマスコミ関係者に返しています。
今日の聖書テキストをもう一度見てみましょう。預言者ヨエルの時代の高齢者にも元気が感じられません。それもそのはず、つい先頃蝗(いなご)の大群が襲いかかってきて、刈り入れ直前の穀物を食い尽くしていったばかりです。農家が被害を受けると、都会の消費者は更に悲劇です。国家的危機です。「もう何もかもお終いだ」と誰もがうちしおれています。 その中でも特に精神的打撃を受けたのは高齢者です。食べる物がない上に、再建策を講じる手だてを見失ってしまいました。こうなった以上、どうすれば若い人たちの足手まといにならずにすむか、と考えるのが精一杯です。
その時ヨエルは主の宮に人々を集めて言いました。「先ずこれまでの罪を悔い改めて神に祈ろう。私たちはこれまで自分の知恵と経験を優先させて、いつの間にか傲慢になっていた。私たちは自然の猛威の前に無力な者であったことを思い知った。神の助け、神の導き無しに何も出来なかったことを思い知ったのだから」と。ヨエルはこの時何歳であったか分かりませんが、老幼男女を呼び集めて悔い改めのメッセ−ジを取り次いだのです。
「主は言われる。今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」(ヨエル2:12)と。神はこの悔い改めの祈りをよしとして、再びこの国を顧みて下さいました。今日、若者は大きな顔をしてお年寄りを道の端っこに押しやり、我が物顔で往来を闊歩しますが、ヨエルの時代若者は年長者、社会の先輩から学ぶことが普通でした。「あなたたちの息子や娘は預言し」とは、神の御霊によって人生の先輩に学ぶべき若者でさえ、世間に向かって神の御心を教える者とされるという意味です。
気持ちが老け込むと、つい「昔は良かったな」と愚痴っぽくなります。このような繰り言は自分も人も心が暗くなります。しかし、神の御霊が注がれたとき、「老人は夢を見」ます。彼らはいわゆるただの老い先短い「老人」ではなく、また世間に遠慮する過去の人ではなく、長くこの世に生きてきた知恵が生かされて、復興の為になくてならない戦力と評価されるのです。老いも若きも夢を見、夢を語る者となるのです。過去ではなく、将来に向かって生きる勇気が与えられます。この夢は「神のご計画が示される」という意味での夢です。私たちも良く夢を見ます。時によい夢を見ます。しかし人間が、人間にとって都合の良い夢ばかりを追いかけていると、その夢に「人偏」がつきます。それはどう言う夢かと言いますと、「儚(はかな)い」夢です。どんなに良い夢と思っていても、人間中心の将来計画は、やがて「儚く」も消えて行くのです。神が与えて下さる夢は、必ず実現します。しかもそれは必ず人を本当の幸福へと導く夢です。神の御霊による夢は思い煩いから解放されるものであることを心に留めたいと思います。もはや老人は社会の隅っこでただお迎えの来るのをひっそりと待つ者ではなくなります。
「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張ってのぼる。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:30〜31)
「わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出たときから担われてきた。同じように、わたしはあなたがたの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3〜4)
今日は長寿を祝い、主に感謝をささげる礼拝です。高齢者と呼ばれる方に申し上げたい。主にあってあなたのこれからの人生は過去を悔やみ、繰り言を述べる人生であってはなりません。最早この世で用済みであると思ってはなりません。これから何年生きることが出来るのかを思い、喜びを分かち合うと共に、神から賜る夢を見、その夢を語り合い、神と共に歩む信仰に生かされていることを喜ぶ者であって下さい。祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
私たちは今、石原憲男兄・ひろ子姉、岡本綾子姉・弟さんご夫妻、角柄タツ子姉、今野高子姉、鈴木洋男兄・菊枝姉、仙波志げ子姉、
服部幸太郎兄、吉永幸夫さんと明子姉を覚えて長寿感謝の礼拝を捧げております。これらお方は、今ここに席を共にすることのできる方、入院中の方、老人保健施設にある方、またホームにいらっしゃる方など実に様々です。しかし等しくこの日を喜ぶことが出来ることは大きな恵みと幸いです。願わくはこれらの方をこれから先もあなたの御手の内に支え、導き、祝福に満たして下さいますように。
彼らは時々、「自分は何も役立たずな者だ」と仰ることがありますが、私たちにはこの方々が、ここに席を共にして下さることが何よりの慰めであり、支えであることを思います。決して役立たずではありません。あなたは今日、年齢を問わず、主に依り頼む者に夢を与え、幻を与えて下さっていること、その夢を語り合い、幻を共有するために、なおも老幼男女を問わず、あなたは必要としておられることを知りました。この深いあなたの御心の故に、ここにいる全ての高齢者が、いよいよあなたを仰ぎ見る者とならせて下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげします。アーメン。