2000年9月24日
主日礼拝メッセージ
笛吹けど踊らず

マタイ11:16〜19

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】   

 昨年友人から頂いた年賀状に「来年から21世紀を迎えますが、云々」と書かれていました。何事にも慎重な彼としては珍しくも気の早いことでした。それ以来2千年問題対策について盛んな議論がなされ、無事に2千年を迎えると今度は文字通り21世紀に入る来年以降を意識した「ミレニアム」というカタカナ文字があちらこちらに見受けるようになりました。確かに21世紀がどう言う百年になるのか期待と不安が交錯しています。人々は「これからの時代」に何を期待しているのでしょう。しかし主イエス・キリストは「今の時代」を静かに見ておられますが、人々は新しい時代に新しい何かを過剰に期待する余り、主イエスの御言を上の空で聞き流しています。当時も今もバプテスマのヨハネを真面目すぎて退屈な人間、反対に心謙りあらゆる人との交わりを喜ぶイエスを、あれはうさんくさいと退けるのです。幼子が結婚式ごっこで笛を吹いても、また葬式ごっこで弔いの歌を歌っても無関心に通り過ぎる大人たちのように神の審きを警告するメッセ−ジが告げられても、救い主の道が開かれたという福音を聴いても、全く無関心に聞き流しているこの世の知識人に対するイエスの溜息が聞こえてきます。政治、経済、教育など先行き不透明なこの時代、成る程気になる問題は山積しています。だからこそ時代の徴を明確に示してくれる十字架の言葉にじっくりと耳を傾けなければならないのです。

  


【本 文】主日礼拝メッセージ】                  2000年9月24日

笛吹けど踊らず

 

 現在マタイによる福音書から神の御言葉を聞こうとして順次学んでいますが、連盟主催のイベント、教会独自の特別礼拝にはそれに関する御言に聴こうとするものですから、なかなか先へ読み進むことが出来ません。まだこの辺りだったのかと自分でも驚いています。皆さんもこれまでマタイによる福音書のどこを読んでいたのか、どう言うメッセ−ジだったのか、恐らくお忘れでしょう。

 さて、今朝は後々諺にもなっているほど有名で、しかも不思議な御言を聴こうとしています。でも一体ここから何を学ぶのでしょうか。時代を見る目です。私たちの主イエス・キリストの父なる神は、この聖書から時代を見る正しい目を持つことを教えようとしていらっしゃるのです。

 

1. 子どもたちの遊びから(16〜17節)

子どもたちの遊びに国境はありません。彼らの視野に入るものは何でも遊びのヒントになります。ここにイエスの時代の子どもたちがどんな遊びをしていたのか、その一こまを知ることが出来ます。「結婚式ごっこ」や「お葬式ごっこ」がはやっていたようです。花婿と花嫁の役割の子どもたち、お祝いの席で楽器を演奏する子どもたちなど、また葬式ごっこでは弔いの歌をさも悲しげに歌っては大人たちの関心を引こうとしますが、大人たちは皆忙しく、子どもたちの相手などしていられません。子どもたちはこのような大人たちの無関心に、ぶつぶつ文句を言うのです。イエスだけはそれを見ながら「今の時代を象徴しているね」と感想を漏らします。

友人から寄せられた1999年の年賀状に「来年はいよいよ21世紀に入ります。云々」と書かれていました。何事にも慎重な彼にしては珍しくも気の早いことでした。確かに人間は古き良き時代を懐かしむ一方、先行き不透明な未来に期待と不安を交錯させてもいます。しかし主イエスは足下の「今という時代」を静かに見つめておられます。子どもたちが結婚式ごっこやお葬式ごっこをしても無関心な大人同様、今の時代の人々はバプテスマのヨハネが悔い改めの説教をしても、イエス・キリストが福音を語っても世の人々は誰も彼も無関心を貫いています。それでよいのかと言っておられるのです。

2.主イエスの嘆き(18〜19節)

 ここはイエスがバプテスマのヨハネについて語る締めくくりです。この部分はまた当時の人々がイエスとバプテスマのヨハネについてどのような評価を下していたかを知る手がかりの一つです。

 ルカ7:33では「バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、葡萄酒も飲まずにいる」とありますが、マタイでは更に徹底して「食べも飲みもしないでいる」とあります。ではヨハネは毎日何を口に入れて生きていられたのでしょうか。「いなごと野蜜」(マタイ3:4)です。彼は自分に厳しい人でしたから、また人にも厳しく「神の審きの日は近い。だから各自の罪を悔い改めて、バプテスマを受けよ」と説いて回っていました。この厳しさが特に指導者階級の人々から煙たがられて「あれは悪霊に取り憑かれている」と酷評を受けていました。一方イエスはどうかと言うと、彼は実によく食べ、よく飲み、大いに楽しむことの出来る人でした。自分を善人と思っている人も、罪人と認めることの出来る人とも、全ての人を友とする大らかさを持っていました。彼の語る言葉は人々に生きる希望と力を与えるものでした。しかしバプテスマのヨハネを正しく評価できない人々は、イエスに対してもまた冷淡でした。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言うのでした。

ユダヤ教の指導者たちは、自分の感情を優先する余り、イエスとバプテスマのヨハネの語る言葉の深い真理を悟ることが出来なかったのです。

3.知恵の正しさ(19節)

 しかし神の知恵とその正しさはやがてその働きによって証明されるのです。勿論この働きの頂点はイエス・キリストの十字架であり、復活です。これによってさしもの頑なな人の心にもはっきりと理解できることでしょう。

 14日から1週間のお休みを頂いて宮崎に参りました。昨年古希を迎えたばかりの叔母が危篤というので、病院に駆けつけましたが、幸い今のところ大事に至らずにおります。皆様の祈りを感謝します。癌だと聞いておりましたが、実際はそうではなかったことを行ってみて知りました。ですが、とても難しい病名で正確には覚えられません。その叔母夫婦にも子どもがいないので当分妻が付き添うことになりました。皆さんにはご迷惑とご不自由をおかけしますが、お許し願いたいと思います。

 長年宮崎県警に勤めておりました叔父は神の不思議な導きでクリスチャンの家系に婿入り養子となりました。当初キリスト教に全く無縁の環境に生まれ育った叔父は叔母を愛しつつもなかなか信仰を持とうとしませんでした。処が叔母は勿論周囲の祈りが聴かれて遂にバプテスマを受け、今では夫婦共に宮崎バプテスト教会のメンバーに加えられています。妻もまたこの叔母と先年天に召された祖母の存在なくしてキリストに出会うことも、救われる機会もなかったと言って過言ではないと思います。叔父と妻がこの叔母に付き添い、私は叔父の留守宅を守るのが主でしたが、時折病室の叔父に弁当を届け、そこで短い時間ですが、3人で信仰の交わりを頂くのが私の楽しみでもありました。貧しくもなく、豊でもない叔父の家は、しかしキリストの香りが隅々まで満ちていました。古めかしい床の間をよく見ると、そこにはいくつかの聖句が文語体で書かれた掛け軸が掛かっています。また叔父の使っている書斎の机の上には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである」(コリント1:25)というメモ書きも見ることが出来ました。信仰によって結ばれている夫婦の絆の強さと深さを実感しました。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」(マタイ11:19)とありますが、ルカ7:35を見ると、この働きは更に継続しています。「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」とあるからです。神の知恵はイエス・キリストの十字架と復活を通して、それを信じる人から信じる人へと継続的に証明されていくのだと言うことが出来ます。私は宮崎に行き、叔父夫婦の信仰の姿勢から神の知恵の正しさが証明されていることをこのメッセ−ジでしっかりと見ることが出来ました。

 過去がどのような時代であったのか、これからの百年がどう言う時代となるのか、過去をきちんと分析・総括し、また未来をしっかりと読みとることも大事なことには違いありません。しかし今という時が神の御前にどう言う時代なのかを静かに見定めることはもっと大切ではないのかと主は語っておられます。

 

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。今がどう言う時代なのかとくと見定めよとあなたは仰います。真にこの世はあなたから遠く離れて自分のことのみに追われています。物が先、金が先と言う意識からでしか過去と現在と未来を見ることの出来ないこの国です。どうかこの国を憐れんで下さい。主にある計りがたい知恵をもって私たちと私たちに関係する全ての人をお導き下さい。

特別伝道集会が近づいています。この集会が真にあなたの知恵の光に目覚めるときとなりますように。私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。


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