【要 旨】
この世はエンドレステープのように限りなく続くと考えている人には驚くべきメッセ−ジです。主イエスは当然のこととして神の審きの日について教えます。しかし神の審きは気紛れであったり、無秩序なものではありません。では神に審かれるのはどんな人でしょう。勿論罪人です。人は罪を犯したら直ちに審かれるのではありません。犯した罪を隠したり、言い訳をして罪の事実を認めない人、悔い改めない人が審かれるのです。主イエスは「数多くの奇蹟」を行ったのに悔い改めないコラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町々をお叱りになりました。この町の人々は自分たちは生まれながらに選民イスラエルで、天国は保証されていると安心していました。信仰の交わりの中にいながら、清めとか、罪の悔い改めという最も基本のことを忘れて惰性に流れた教会生活をしているクリスチャンに見られる姿です。
それとは対称的なのがティルス、シドン、ソドムの町々です。これらの町は神の目には勿論、人の目にも倫理観が喪失していました。しかし主イエスの厳しくも愛豊かなメッセ−ジを初めて聞いた時、その御言を新鮮な思いで受け留めて聖なる畏れに目覚め、自分の罪を認めて悔い改める時救われるのです。悪しき生活をしていた人でも、生まれて初めて教会に導かれて聖書の話を聴いた時、神の聖さと己の罪深さに気付き、心から神を畏れ、罪を悔い改めるならティルス、シドンと言った町々と同じです。紙は救って下さいます。神のなされることは人の思いを超えて不思議です。罪人が悔い改めて救われ、善人が罪を認めない為に審かれるのです。
【本 文】【主日礼拝メッセージ】 2000年10月1日
今朝は神の審きについて学びましょう。一体神に審かれのはどんな人でしょう。勿論罪人です。しかし聖書は言います。人は罪を犯したから直ちに審かれるのではなく、犯した罪を隠したり、言い訳をして認めない人、悔い改めない人です。この事を心に留めて主イエスの御言に耳を傾けましょう。
一、 福音に聴け
「数多くの奇蹟」(口語訳「数々の力ある業」)については11:5にまとめられていますが、それは4:23〜25、9:12〜のことです。主イエスがこれほど多くの人に力ある業を示さなければならないほど、この世の吹き溜まりのような所に追いやられ、見捨てられている人が多かったと言うことです。しかしイエスの力ある業は単なる「世直し」ではありません。彼の行くところ癒しと解放と悔い改めが起こりました。その意味でまさに「力ある業」と言うことが出来るのです。人々にとってイエスの出現こそ福音だったのです。
悔い改めとは何でしょうか。聖書の言語に従えば、人生の百八十度転換です。もう少し詳しく言うなら、自己中心からキリスト中心の生活への転換です。神に背を向けた生き方から神と共に生きる生活への大転換です。神と向き合うとき、人は自然に神の聖さに反して自分が如何に罪深く、汚れた者であるかを認めないでおれなくなり、そして「私のこれまでの罪をお赦し下さい」と言う告白へと導かれてゆくことでしょう。これが真の悔い改めの意味です。
二、 罪に目覚めよ
今日叱ると言うことが出来ない時代になったようです。私たちの幼い頃には親兄弟と言わず、近所の大人たちから叱られることは普通でした。叱る方もそうでした処が昨今親は子を叱らなくなりました。叱れなくなったという方が当たっているのかも知れません。周囲の大人たちも同じです叱られることになれていない子どもたちは学校で先生方から注意を受けると、ナイフを持ち出したり、暴力に訴えて仕返しをしようとします。仕返しを恐れる余り、親も教師も周囲の大人たちも口をつぐんでしまうようにありました。口をつぐむもう一つの理由があります。大人たちにも後ろめたい生活の垢があるからです。うっかり叱ろうものなら「あんたのしていることはどうなの?」と逆襲されるかも知れないと恐れている面もあります。しかし元々「叱る」という行為は愛情の裏返しです。小学生の頃、いたずらをしては教壇に整列させられました。順番にビンタを受けるのです。友人が頬を叩かれている音に目を開けておれません。自分の番になったとき、教会に行っている私はその直前祈りました。「どうか自分だけは他の友達よりも優しくぶたれますように」と。しかしこんな身勝手な祈りが聴かれるはずがありません。でもお仕置きが済んで席に戻った私たちが先生の顔を見て驚きました。叩かれて痛がっている私たちの何倍もの涙が先生の頬から流れ落ちていました。そして「憎みては打たぬものなり笹の雪」という句の説明をして下さいました。
イエスのお叱りもそうです。コラジン、ベトサイダの町々を叱るのはそれらの町を誰よりも愛して止まないからです。神のこれらの町へのお叱りは終わりの始まりですが、まだ終わりではないのです。叱責は最後の審判ではないからです。最後の審判に絶えられるように積もり積もった罪という雪を払いのけるための愛の鞭なのです。そしてこの二つの町の対比として上げられたティルスやシドンは異邦人の町で、繁栄を極めていましたが、同時に悪徳の町でもありました。しかしそれらの町はこれまで福音を聴く機会がなかったのですからやむを得ません。もし今彼らがイエス・キリストに出会い、福音に聴く機会が与えられたなら、彼らはきっと「粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたに違いない」と言われました。「粗布をまとう」とは喪に服することで、自分の罪に死ぬことです。「灰をかぶる」とは罪の悔い改めを意味します。神に対する真摯な態度を言うのです。
三、 悔い改めよ
「審きの日には」とイエスは繰り返し言われます。まだその日ではないのです。予告とか警告は「今ならまだ間に合う」という意味です。まだ救いの望みが消えたわけではないのです。罪を持ったままでは陰府に落とされます。陰府は死後万人の行くところです。地獄の入り口ですが、地獄ではありません。もし生前悔い改めているならその先は天国です。しかし生前悔い改めようとしなかった者にとってその先は永遠の滅びです。いずれにしても陰府に落ちてはもう遅いのです。
あなたの前に天国の道と地獄への道が備えられています。もしあなたが前者の道を願うなら、悔い改めなさい。イエス・キリストの福音を聴いた今、あなたに残されたチャンスを逃してはなりません。
祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
私たちは今福音を聴きました。福音はイエス・キリストによって語られました。イエスは言われます。あなたの心がコラジンのようであってもシドンのようであっても、選び取る道はただ一つ、悔い改めてイエス・キリストを救主と信じることであると。今私たちは分かりました。あなたを救主と信じます。どうか天の父の御国へと私たちをお導き下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。