【要 旨】
主イエスは「手を伸ばしなさい」と言われました。その言葉に従ったとき、片手の萎えた人は癒されました。
クリスチャンでない人から「聖書の中に奇蹟物語さえなければ神を信じるのだが」という声を聞くことがあります。しかし考えてみて下さい。この世は全てが神による奇跡の産物です。この世界とその中に住む全ての生き物は、ただ神の言葉によって造られたと聖書は証言しています。科学者が言うように、この世界も生き物も偶然の重なりと、果てしない時間の中で進化を遂げて現在の姿形が出来たとして、それではその偶然の重なりとなったおおもとはいつどのようにして出来たのでしょうか。何かのきっかけが進化を誘発したとして、そのきっかけは誰が与えたのでしょうか。全ての原因は神によると信じることがどうして不合理なことなのでしょうか。
聖書は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは一つもなかった」(ヨハネ1:1〜3)と創造主を讃美しています。片手の萎(な)えた人はイエス・キリストの言を素直に信じたので、癒されました。「神には何でも出来る」と信じる者だけが大いなる恵み、奇跡を体験できるのです。
【本 文】【主日礼拝メッセージ】 2000年10月29日
先週の特別伝道礼拝は祈りが叶えられて大勢の出席者を得ました。心から感謝します。この伝道礼拝が本当に成功に導かれたものとなりますように、これからもフォロ−アップに努めて参りましょう。今日の礼拝がその第一歩です。
1. 御言の交わり
先ずこの物語から聖書とは交わりの書であることを学ぶことが出来ます。当時ユダヤの首都エルサレムには神殿がありました。更に各地方には「シナゴーグ」と呼ばれる会堂がありました。神殿では年に数回、祭儀礼拝が中心に行われますが、会堂では毎週安息日毎に言葉のメッセ−ジを聴く礼拝がささげられます。会堂は律法(聖書)に基づいて行われる教育活動の場です。今日キリスト教会の日曜礼拝と同じと考えて頂いて良いと思います。その礼拝出席者の中に、片手の萎えた人がいました。原文は10節冒頭に「見よ」と注意を喚起する呼びかけの言葉で始まっています。それはこの会堂にいる全ての人の目が彼に引きつけられる事件の予告です。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」。とファリサイ派の人々(14節)は問いかけました。これは罠です。二週間前にもお話しましたが、律法によると安息日に仕事をすることは禁じられていますが、治療も一種の仕事と理解されていました。イエスがもし癒しの業を行えば、安息日の規定を破った者としてその筋に訴える積もりです。聖書の教えを利用して人を陥れるとはどう言うことでしょう。
私たちの教会では礼拝に引き続きファミリー分級という時間を持ちます。聖書を学ぶ時間です。また水曜日と木曜日にも聖書を学ぶ時間を持ちます。キリスト教会はどうしてこんなに聖書を学ぶ時間を多く持つのでしょう。それは独りよがりの聖書の読み方に陥る誘惑から守って貰うためです。一人で聖書を読んでいると、どうしても都合の良い読み方になってしまいます。教会という交わりの場で聖書を読んでいると、隣に座っている人の息づかいと共に、その人が社会の中で苦闘しながら、神に縋(すが)っている祈りの声も聞こえてきます。すると不思議に「ああ、このような聖書の読み方があったのか。神の御心はここにあったのか」と分からせていただけるのです。
イエスの聖書講義は実に生活の匂いがします。生き生きとした内容を持っています。分かり易い譬えをもって聖書の深い意味、神の豊かな御心を教えて下さいます。「一匹の羊に優る一人の人に救いの手を伸べることは善いことであり、当然律法の許す所である」と。つまり聖書は私たちに命を与える書物、神に立ち帰らせる書物なのです。
2. 手を伸ばす
イエスはファリサイ派の氷のような視線を背に感じながら片手の萎えた人に向かって「手を伸ばしなさい」と言われます。言われるままに手を伸ばしました。すると、元通りよくなりました。
時にクリスチャンでない人から「聖書の中に奇蹟物語さえなければ神を信じても良いのだが」という声を聞くことがあります。病気が癒されたり、死人が生き返ったりする話は眉につばを付けたくなると言うのです。では聖書のこのような物語はイエスの弟子達なのでしょうか。そうであれば、私たちは聖書そのものを破り捨てなければなりません。イエスは言葉だけで萎え果てたと思われていた腕を元通りになさいました。もしこれをフィクションとして片づけるなら、この世界も全ての生き物も、勿論人間も存在してはならないのです。なぜなら、聖書はこの世界とそこに住む全ての命は、ただ神の言(ことば)によって造られたたと証言しているからです。百歩譲って科学者の言うように、この世界とそこに住む生き物が、偶然の重なりと果てしない時間の中で進化して出来たとしても、それでは一体その偶然の重なりとなったおおもとはいつどのようにしてできたのでしょうか。何かのきっかけが進化を誘発したとしたら、そのきっかけは誰が与えたのでしょうか。全ての原因は神によると信じる事がどうして不合理なのでしょうか。私たちにとって奇跡と映る事も、神にとっては何でもないことなのだと信じることがどうして愚かの極みなのでしょうか。宇宙の秩序整然とした配置と運動、地軸の僅かな傾きのお陰で四季を見ることの出来る地球、何千種類もの草花の美しい色と形と香りは偶然の産物とは考えられません。しかも花から花へと蜜を運んでくれる密蜂の眼は花の色の識別は出来ない構造になっています。色を楽しむことが出来るように造られているのは、人間とごく僅かな生き物だけだと言われています。これら全ては私たち人間の眼には奇蹟としか言いようがありません。それを認めたくないものだから「偶然に出来た」と解決にならない解決をしようとするのが人間です。それは神の目には余りにも悲しい人間の傲慢な姿と言えないでしょうか。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1〜3、p.163)と聖書は証言しています。片手の萎えた人が、もしイエスのお言葉を聴いて、イエスを主と信じ受け入れず、その手を伸ばさなければ、それは萎えたままであったでしょう。しかし彼はお言葉を聴いて素直に信じました。彼は自分のために死ぬことも辞さずに「手を伸べよ」と命令して下さる方を主として受け入れました。主イエス・キリストは、あなたの心があなたの生活のあの問題、この問題の為にすっかり萎えてしまっていることもご存知です。そしてあなたに命じておられます。「その手を伸ばしなさい」と。もし今あなたもその手を伸ばすなら、そしてあなたの心を主イエスに委ねて開くなら、あなたの人生にも必ず奇蹟が起こります。癒されます。どうか今イエス・キリストをあなたの救主と受け入れて下さい。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を心からあがめます。聖書に登場した人は片手が萎えていました。しかしイエスのお言葉に触れたとき、癒されました。この瞬間彼は心の底から安息を得たことでしょう。主よ今ここにも身体と心の萎えている人がいます。しかしあなたのお言葉にはその全てを癒す力があると信じますから、あなたをほめ讃えます。
今、あなたの御前に私たちの手を伸べます。私たちをお救い下さい。私の主となって下さい。これからの私の人生を正しく導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。