2000年11月5日
幼児祝福主日礼拝メッセージ
主と出会う日

テサロニケ4:15〜18

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】   

 今朝は13名の召天者を記念して礼拝を捧げています。確かに一抹の寂しさを禁じ得ません。しかし私たちはこれらの人々を再び暗い気持ちで追悼するためにここに集まっているわけではありません。繰り返して申し上げますが、記念するためです。私たちはこの13名の故人を心に永く記憶し、度々思い起こすのです。ただ彼らを記憶し、想起するだけでもありません。彼らを記念する度毎に、彼らをこの世に生かし、その霊と心と体を罪から贖い、救いに入れ、永遠の生命を持つ者として暫しの間墓の下に憩わせ、来るべき日、御国へと引き上げて下さる天と地の主、全能の神の栄光をほめたたえる礼拝を捧げるのです。

 使徒パウロが言うように「生き残っているわたしたちが先に召された彼らより先になることはない」のです。終わりのラッパが鳴り響くとき、主イエスは再び世に降って先に眠りについた者、その次に私たちを呼び出し、空中で相まみえるのです。この13名を記念する事は、生き残っている私たち自身の信仰が弱り果てないためにも必要なことなのです。聖書に戒められているように「初めのころの愛から離れてしまわないため、死に至るまで忠実である」(ヨハネの黙示録2:4,10)ことが最も重要であると銘記する為なのです。

 


【本 文】幼児祝福主日礼拝メッセージ】               2000年11月5日

主と出会う日

 

 今朝私達は13名の兄弟姉妹を記念して礼拝をささげています。

高木鎭一・美津子ご夫妻は高木昭之兄のご両親で、召天日は1954年10月15日と1982年11月13日です。ご両親ともイエスさま第一の生涯を貫かれたと聞いています。

関野九郎・はるのご夫妻は岡本綾子姉のご両親で、召天日は1971年7月25日と1989年3月12日です。特にはるの姉は仙川キリスト教会での礼拝と交わりを通して、今も信仰の足跡を認めることが出来ます。

沢田アキ姉は鈴木菊枝姉の母上で、召天日は1977年8月9日です。菊枝姉は今この礼拝の時間に合わせてどんぐり山ホームで母上を思い、祈りを合わせておられることでしょう。

立川孔弘・田鶴子ご夫妻と孔次さんは國田光恵姉妹のご両親と御夫君で、召天日はそれぞれ1945年8月17日、1985年5月15日、1976年11月11日です。

白石伍郎・せつご夫妻は吉野純子姉のご両親で、召天日は1980年7月28日、1979年10月20日です。聖公会の教会で良く信仰の道を全うされたと言うことです。

角柄登喜雄兄は角柄タツ子姉の御夫君で、召天日は1999年4月29日です。まさに一粒の麦となって地に落ちて死にましたが、その死は空しく終わらず、タツ子姉がこの教会に導かれる機会となり、ご自身もまた主の御手に受け入れられました。

服部貞子姉は服部幸太郎兄のご令室、また美枝子姉の母上で、召天日は1999年10月13日です。姉妹の記憶は今も私たちの脳裏に鮮明です。小さな身体で時折強い風に押し戻されそうになりながら、しかし何よりも教会を愛し、礼拝、祈祷会に出席なさっていました。

 

 私たちはこれらの人々を再び暗い気持ちで追悼する為にここに集まっているわけではありません。寂しくはありますが、しかしまたこれら故人が主の御許に安らいでいる事実を確信する故に心平安です。それ故に私たちは追悼する為でなく、記念する為にここにいるのです。記念とは「想起」と理解して良いでしょう。私たちはこの13名を永く記憶して度々想い起こすのです。彼らを記念する度毎に、彼らを世に生かし、その霊と心と体を罪から贖って救いに入れ、永遠の生命を持つ者として暫しの間墓の下に憩わせ、来るべき日に御国に引き上げて下さる天と地の主、全能の神の栄光をほめ讃える礼拝を捧げるのです。このことを更に深く学び取る為にも、今朝は私のような貧しい者の言葉よりも、聖書自身から神の御心を多く聴き取ることにしたいと思います。

 

 使徒パウロが言うように「生き残っているわたしたちが先に召された彼らより先になることはない」のです。これは何を意味しているのでしょう。いつかは分からないが、主イエス・キリストは再び来られることの確実性を証言しているのです。この手紙を読んでいると、再臨の日、この世の終末はすぐにもありそうに感じられますが、あれから2千年近く経ちました。今は勿論この手紙を書いた当のパウロもこの世にいません。これまで何人もの人が、或いは宗教団体が、今にも世の終わり、神の審判の日が迫ってきているようなことを言いましたが、格別変化はありません。最近では「タベラ世界宣教会」という韓国の団体が「1992年10月にイエス・キリストが空中再臨される」と世界中に宣伝しました。しかし何事も起こりませんでした。 

 

 では、新約聖書に書かれていることは嘘なのでしょうか。いいえ、嘘ではありません。ただその日がいつなのかは誰にも分からないだけなのです。主イエスご自身が「そのとき、人の子の徴(しるし)が天に現れる。そしてそのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と約束しておられます(マタイ24:30〜31)。

 しかしまた主はこうも言われました。「その日、その時はだれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存じである」と(マタイ24:30)。

 終末がいつなのか、誰も分からないのです。それでは聖書としての値打ちがないではないか、とあなたは言われるかも知れません。しかしそのような人の為に聖書はこうも言っています。「まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。『主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか』…愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(ペトロ3:3〜4,8〜13)

 

 このように13名の方々を記念することは、生き残っている私たち自身の信仰が弱り果てないために必要な時間なのです。聖書に戒められているように「初めのころの愛から離れてしまわないため、…死に至るまで忠実である」ことが最も重要であると言うことを銘記しましょう。

 

祈りましょう。

 天の父なる神さま、あなたの御名を心からあがめます。その日、その時がいつであるか、誰も分からない。それは天の父である神のみがご存知であると聖書から学びました。主が必ず私たちを永遠の御国に呼び集められる日が定められていることを信じることができます。なぜなら新約聖書ヘブル人への手紙に言われているように、13名もの故人を初め、歴代の信仰の先達であり、キリストの証人に雲のように囲まれているのですから。

 今、私たちはあなたに祈ります。どうか私たちの信仰を支えていて下さい。この世のあらゆる誘惑から守っていて下さい。あなたが再びおいでになった時、私たちが行方不明になっていると言うことにならない為に、私達の主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。


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