2000年11月12日
幼児祝福主日礼拝メッセージ
万事感謝せよ

テサロニケ5:16〜18

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 「いつも喜び、絶えず祈れ、全てのことを感謝せよ」と聖書は言います。

今日は幼児祝福礼拝です。これは日本の国民的行事になっている「七五三」のキリスト教会版ではありません。はるか二千年の昔、主イエスが「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに入ることはできない」と言って、子どもたちを抱き上げ、手をおいて祝福されたことに始まります。この時主の御顔も、親たちや大人たちの顔も皆笑顔と喜びに満ちていたことでしょう。今日は子どもたちの体の成長と健康を喜び、神に感謝すると共に、いやそれ以上に、神の国を受け入れる機会が与えられたことを喜ぶべき日です。

 しかし大人も子どもも「いつも喜んで」ばかりはいられません。ストレスが頂点に達すると、悲しみを通り越して憤りさえ沸いてくることでしょう。喜べないなら祈りましょう。つらいから祈りましょう。悲しいから祈りましょう。腹が立つから祈りましょう。絶えず祈りましょう。祈り続けることによってこんな私のためにも主イエスが十字架に死んで下さったこと、救いに入れて下さったことが分かります。神の国が見えてきます。喜ばずにいられましょうか。感謝しないでおれましょうか。


 【本 文】幼児祝福主日礼拝メッセージ】               2000年11月12日

万事感謝せよ

 

 「いつも喜び、絶えず祈れ、凡(すべ)てのこと感謝せよ」と聖書は言います。今日は「幼児祝福」礼拝です。日本では昔から「七五三」という行事があります。これが一般的に普及し始めたのは江戸時代からです。徳川幕府第五代将軍綱吉が、その子「徳松」の成長を大々的に祝ったことから、民もまたこれに倣い、以来国民的行事になりました。男子は3歳と5歳、女子は3歳と7歳に祝うことも綱吉の発案なのでしょうか。7,5,3と言う数字は中国の易の思想に関係があるようで、奇数をもってめでたいとしたのです。それと日本では昔から子どもの死亡率が非常に高かったことと合わせて、神に祈る思いで祝った事だろうと思われます。また11月15日はこれも占いによると、一年の内で最上の吉日だと言うことのようです。

 

 では大抵のキリスト教会が同じ11月に子ども達に祝福の礼拝を捧げるのは、この機に乗じて人々を神社から教会に引き寄せるための方策としてなのでしょうか。つまりキリスト教会の「幼児祝福礼拝」は七五三のキリスト教会版と言うことなのでしょうか。そうではありません。はるか2千年もの昔から、私たちの主イエス・キリストによって学んだ祝い事であります。そこの所を聖書に見てみましょう。

 

 「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』そして、子どもたちを抱き上げ、手をおいて祝福された」

 この場の情景が目に浮かぶようです。祝福を受ける子どもは勿論、それを見守る親や周囲の大人たちも、そして恐らくイエスご自身の表情も和み、笑顔が満ち溢れていたことでしょう。我が子の成長を喜ぶことは親として当然の思いです。それを否定する権利は誰にもありません。しかしそれだけでよいのか、とイエスは言われます。イエスが子ども達を祝福されたのは、子どもたちの中に神の国を見たからです。幼児祝福礼拝は、ただ子ども達の為ばかりではなく、それを見守る大人たちに、子どものように神の国を受け入れることを期待しておられるのです。子どもは決して天使ではありません。時にはいたずらをします。しかし、子どもの特長の第一は何と言っても「あるがまま」の姿です。このあるがままの生き方を大人たちは毎日少しづつ忘れていくのです。見栄を張ります。本音を隠して建前で生きる術を身につけます。「あるがまま」、これこそ神の国の条件だと主は言われるのです。

 

 そこで今日与えられた聖書に目を留めましょう。「いつも喜びなさい」と聖書は言います。これはある先生から教えて貰ったことなのですが、不思議なことに怒るための筋肉と笑うための筋肉は別なのです。では怒る為には何本の筋肉を使っているかと言いますと、60本もの筋肉を使うそうです。それに比べて笑うための筋肉はたった15本ほどで済むのだそうです。もう一つ不思議なことに、皆さんも知っている通り、筋肉は使えば使うほど発達しますから、怒りっぽい人はきっと怒りん坊の筋肉の方が笑いの筋肉よりも発達しているということです。聖書の中でパウロ先生が、いつも喜んでいなさいと教えて下さっている意味はこんな処にもあったんだなと感心させられます。皆さんも自分のために、そして周りの人のために、これからは出来るだけ笑うようにして下さい。

 

 でも特別嬉しくもないのに笑うことは難しいです。そこで聖書の次の言葉を読みましょう。「どんな時にも祈りなさい」とあります。「笑えないのなら、喜べないのならとにかく祈ってごらん」と神はパウロ先生を通して言われます。大人も小さい子どもも悲しいことが一杯あることでしょう。辛いことが山ほどあるかも知れません。だからそのような時にこそ祈りなさいと聖書は書いています。祈ってみて初めて喜べることがこんなにもあったのかと気が付いて驚きます。喜べることを発見したら、その喜びの基になる愛を与えてくださった神さまに向かって、その一つ一つについて感謝しなさいと神は言われます。

 

 最後に「足跡」という美しい詩を読みます。子ども達にも分かり易く読みますから聞いていて下さい。

 「ある夜、私は夢を見た。私はイエスさまと共に海岸を歩いていた。暗い夜の空に、私のこれまで生きてきた何もかもが映し出された。どの場面にも砂の上にイエスさまと私の二人の足跡が残っていた。これまで生きてきた最後の様子が映し出されたとき、私は砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。私にとって一番つらく悲しいときだった。私はイエスさまにお尋ねした。「イエスさま、私があなたにお従いすると決心したとき、あなたはどんな時にも私と共にいると約束して下さいました。それなのに私が一番つらい時、一人の足跡しかないなかったのです。一番あなたにそばにいて欲しいと願っていたとき、あなたは何故私を捨てられたのか、私には分かりません。

 イエスさまはささやかれた。「わたしの大切な子よ、私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。あなたが苦しんでいたとき、足跡が一つだったのは、私があなたを負んぶして歩いていたのだよ」

 

祈りましょう。

 天のお父さま、あなたのお名前を心から讃美します。いつも喜んでいることは難しいことです。私たちの周りには悲しいことや、辛いことが一杯いっぱいあるからです。でも、パウロ先生が教えて下さった通り、これからはそう言うときにこそお祈りする事にします。お祈りすることによって、辛いとき、悲しいとき、私は独りぼっちだったのではなく、イエスさまに負んぶして頂いていたのだと言うことに気が付くでしょう。これ以上嬉しいことはありません。私たちの心はきっと喜びに変わることでしょう。今も心は喜びで一杯です。有り難う御座います。

 イエスさまがいつも私たちと一緒にいて下さることを忘れないように、弱い私たちをお導き下さい。私たちの救主イエスさまのお名前によって子の祈りをお捧げします。アーメン。


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