1999年10月10日

主日礼拝メッセージ

「岩の上の家」 

聖書: マタイ7章24〜29節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】


 この譬え話の中から人生の良い教訓が得られます。普段は何と言うことはないのですが、まさかという事態に対処する備えができているかという教えと理解することもできます。その意味でも大変有意義な教えです。
 しかしこれはもう少し深い所にメスを入れた教えなのです。つまりあなたは何を土台に据えて人生を考えているかと問われているのです。ある人は学問、ある人は技術、またある人は富とか名誉とか地位を土台に考えているかも知れません。それも大切です。世の中がどのように移り変わっても、天変地異があっても、これさえあればというものを持っている程安心なことはありません。では、と主イエスは言われます。「誰にでも襲ってくる嵐、死という嵐があなたにとって現実のものとなった時、あなたはそれに耐えられるか」と。岩の上に家を建てた賢い人とは、死に勝つ備えの出来ている人のことです。死の力の前には学問も技術も富も名誉も地位も歯がたたないのです。死の嵐をさえ涼風と感じられる土台、それはあなたの罪をあがない、死と滅び、神のさばきから救い出して下さったイエス・キリストを信じる信仰です。神があなたのためにその独り子を与えてくださったのはその為です。岩なるイエス・キリストを今こそあなたの心の中心にお迎えなさい。そうすればあなたがこの世で生きるに必要な全てを添えて与えて下さいます。


【本 文】 主題「岩の上の家」

 

 宝塚バプテスト教会の会堂建築の時、慎重に時間をかけました。小さな買い物ではありません。後になってこれは駄目だ、外のと取り替えると言うわけには行きませ ん。不動産業者が持って来てくれる物権、新聞のチラシ公告、口コミで得た情報等をもとに丸2年、それこそ足を棒 にして探し歩きました。設計士や土木の専門家が見て、ここは良いと薦めてくれた土地は勿論私たちも気に入りまし た。それでも内心、地盤は大丈夫かという不安は拭い切れません。しかしその土地が本当に大丈夫だと言うことを不 信仰な私たちの為に神ご自身が証明して下さいました。それはあの阪神・淡路大地震でした。被災者の方々のことを 思うと、不謹慎な言い方で申し訳ないのですが、あの震災の時でさえ土地と周辺の家屋は殆ど無傷でした。活断層か ら僅かに逸れたことも幸いしましたが、設計士は例えマグニチュード7以上の激震に襲われても、土台は大丈夫と太 鼓判を押してくれました。後はどんな上物を建てるかという問題です。目先の建築費を惜しんで、そこそこの会堂を 建てるか。それなら自己資金で何とか賄えます。或いは50年-100年後を視野に入れて建てるのか。何度も修養会や 24時間連鎖祈祷、グループ祈祷を開き、教会員全員が祈りに参加しました。建築委員会も基本設計を書いては消し、 書いては消しの作業でした。一人ひとりが出エジプト記−ネヘミヤ記を読み直し、御言葉に対する信頼と祈りの中身 、また献金の姿勢について神さまのチャレンジを受けました。そして出来上がったのが今日見る会堂です。立派な会 堂が出来ました。三鷹の北島先生も仰っていますが、確かに会堂は伝道してくれます。毎週新しい人が礼拝に来られました。

 ある人が私に「立派な会堂が出来たのに、どうしてこんな文化遺産に登録されそうな会堂の仙川キリスト教 会に来たのか」と訊ねます。その問いに対して私は答える言葉を知りません。主の御命令に従うのみです。でも正直 に言わせて戴くなら、このまま体が動かなくなるまでこの教会に置いて欲しいなあ、と願っています。引っ越し荷物 の荷造りや荷ほどきに少々疲れを覚えるようになったことも理由の一つですが、主がこの教会で私に与 えられた仕事の多さを思うと、私の能力では一生かかりそうな気がするのです。年をとりすぎて牧師として役に立た なくなって、それでも「メシのため」(「召」?、「飯」?)と居座るかも知れません。その時はどこかへ上手に隠 居させてやって下さい。  

 さて与えられた御言葉に聴きましょう。ここは主イエス・キリストが話された譬え話の中で有名なお話の一つと言 えます。物語が非常に単純で分かりやすいからです。「賢い人」と「愚かな人」の基準がこの世の人々の考え方と随 分違っています。阪神・淡路大震災や、それを上回る規模のこの度の台湾大地震でひっくり返った建物の基礎が、考 えられない材料と工事で支えられていたことが分かりました。施工業者はあの事故さえなければ自分たちを賢い者と ほくそ笑んでいたことでしょう。しかし今では世間の誰が賢い生き方だとほめるでしょうか。神を恐れぬ愚か者と言 う外ありません。この譬え話の2人は家を建てるにあたって見た所そう大きな違いはありません。同じ環境の中で同 じ規模の家を建て、そして同じ災難に遭ったのです。1人は立派な邸宅、もう1人は粗末な小屋、1人は森の中に、 もう1人は砂漠の中に建てたのとは書かれていません。しかし結果は一方はびくともしないが、他方はひどい倒れ方 でした。原因は普段は見えないそれぞれの土台の違いにありました。

 この物語は人生を教える良い教訓です。普段は何と言うことはないのですが、「まさか」に備えて人生を築き上げ て行く事が教えられます。生命保険や火災保険会社は、人生の土台はお金ですよと言うでしょう。そのようにこの譬 え話を、人生に突如襲う「まさか」に備える処世術と読むことも全くの見当外れとは言えません。  しかしこのお話はもう少し深いところにメスを入れた教えです。主イエスは「あなたは何を土台に据えて人生を考 えているのか」と問うて居られます。ある人は学問、ある人は技術、またある人は富、名誉、地位を土台に考えてい るかも知れません。それも大切です。世の中がどのように移り変わっても、天変地異があってもこれさえあればと言 うものを持つことは安心です。  

 では、と主イエスは言われます。「誰にも襲ってくる死という嵐があなたにとって現実のものとなった時、あなた はそれに耐えるものを持っているか」と。岩の上に家を建てた賢い人とは死にさえ打ち勝つ備えの出来てい る人のことです。死の力の前には学問も技術も富も名誉も地位も歯が立たないのです。多くの日本人は死の向こう側 にあるものは「無」の世界だと言い切ります。本当でしょうか。聖書は「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁 きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)と明言しています。死を経験しない人間の死後に関する哲学と 、生と死を司る神の言葉と、あなたはどちらの言葉を信じますか。死の嵐をさえ耐えさせる人生の土台、それはあな たの罪を贖い(ゆるし)、死と滅びと神の審きから救い出す力を持つ全能の主イエス・キリストを信じる信仰です。 神があなたの為にその独り子イエスさまを与えて下さったのはその為です。

 

 ここに一人の人がいます。彼こそその問いに答えることが出来た一人で、その人の名はTと言います。香川県高松 市の人で、一代で自動車整備工場を築き上げた人です。夫人は若い頃から敬虔なクリスチャンでしたが、彼は決して 教会に行こうとはしませんでした。技術畑の人に多く見られるのですが、言葉数が極端に少ない仕事一筋の人でした 。それでも教会の事となると、何をさておいても良く動いてくれる人でした。Y牧師と教会の人達はそんな彼を何と か教会に誘おうと色々試みました。見た目には功を奏しませんでした。しかし主イエスは彼の心の戸をノックし続け ておられたのです。彼はノックの音に気付きました。それは彼の体に異変を感じたのとほぼ同じでした。肝臓に腫瘍 が出来、しかもそれはかなり進んでいました。病院側も出来るだけの手を尽くしてくれましたが、最早これまでと言 う事態に立ち至りました。まだ体が動く間は礼拝に夫婦揃って出席していましたが、それも困難になりました。しか し彼の体の衰弱と反対に、彼の内に主イエスに対する信仰の炎は勢い良く燃え始めました。入退院を繰り返し、数カ 月が過ぎました。その内にY牧師は別の教会へ転任して行かれましたので、後を託された私は丸亀市から高松市まで 約30を往復しながら彼の牧会を手伝うことになりました。短い交わりでしたが、クリスチャン仲間として充実した 交わりを頂きました。人はこの世からあの世へ旅立とうとする時、こんなにも瞳が澄み渡るものかと驚きました。勿 論癌特有の痛みが彼の五体を容赦なく襲います。時に悲鳴を上げ、周囲の者に当たり散らすこともしばしばでしたが 、それは彼の本心ではなく、暴れ回るガン細胞のせいです。ある日病室を訪ねた時、夫人が目に一杯涙をためて「夫 が こんな事を言ったのですよ」と看護日誌を見せてくれました。病気のせいで何かまた夫人に辛く当たったのかと思い 、ノートを見ました。「〇月◇日(□曜日)夫が喜びを全身に表しながら、『母さん分かった、僕の行く所が分かっ たよ。イエス・キリストの所なんだよ。イエスさまが僕の罪のために十字架に死んで下さったこと、3日目に墓から 甦って、僕に永遠の命を与えて下さったから、僕はイエスさまの所に行けるのだと言うことが分かったよ』と言った 。主よ、感謝します。アーメン」と書かれていました。彼に「良かったですね。私たちも少し後であなたの行くとこ ろへついて行くことになるでしょう」と言うと、彼は黙って笑顔を返してくれました。それから数週間後、Tさんは 静かに天に凱旋して行きました。

 岩なるキリストを土台とした確信があったから、そしてその「岩」が彼を確かに支 えていて下さっていたから、あの嵐のような病魔と、それから来る激痛の中でも「分かったよ、僕の行く所が分かっ たよ」と言い切ることが出来たのです。人はこれを「病気の為に熱に浮かされて口走っただけだろう」というかも知 れません。しかし私はあの日、あの病室に立ち会った一人としてはっきり言えます。人が生死の境にある時、有りも しない事を口走るでしょうか。熱に浮かされていたとしても「根拠のない言葉だ」と聞き流すことを許さない、厳粛 な言葉ではありませんか。

 彼の人生の締めくくりからもう一つ、岩なるキリストを土台とする人生はいつでも始め ることができるのだと言うことです。 あなたも今岩なるキリストをあなたの心の中心にお迎えなさい。そうすれば 、あなたも死に勝つ力とこの世で生きるに必要な全てを添えて与えて下さいます。祈りましょう。    

 

 天の父なる神さま。あなたの御名を心から崇め讃美します。岩の上に家を建てた賢い人、砂の上に家を建てた愚か な人のお話を通して、私たちは与えられた人生の拠り所は何かを深く探られました。どうか、私たちもこの世を離れ る時「私の魂がどこに行くか分かっている」と大胆に証できる者とならせて下さい。私たちの救主イエス・キリスト の御名によってお願い致します。アーメン。                   


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