主日礼拝メッセージ
「狭い門から入れ」
聖書: マタイ7章13-14節
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
お茶室の中に入るには、「にじり口」をくぐりぬけなければなりません。それは今日の聖書テキストとそっくりです。というよりもこの聖句にヒントを得て考え出されたと聞いています。身をちぢめ、頭を低くしてようやくにじり口を通過出来ます。そのように高慢、偽善、好色、偶像礼拝、悪い生活習慣等いっさいの罪過を降ろして、全くの身軽になって初めて「命に至る狭い門」を通ることができるのです。
ところが、旧約聖書(出エジプト記 27:16)によると、「いのちへの門」は本当は世界一広い(約10.5m幅)のです。モーセが民と一緒に作った「神の幕屋」の入り口のことです。これが後のエルサレムの神殿、現代の礼拝堂の模型です。教会、即ちイエス・キリストと共にある平和で自由で幸いな世界の入り口は世界中の人に開かれた世界一広い入り口でした。それが今は狭くなったというのではありません。昔も今も「命に至る」門は広く開かれているのです。それを狭くしているのは外でもない、私たちの罪過が原因なのです。目先の損得で人生を考える浅薄な知恵がこの門を狭くしてしまっているのです。
しかし、本当は広いのです。2千年この方イエス・キリストは十字架の上で血を流しながら両手一杯広げてあなたを待ち続けておられます。今信じ、悔い改めて主のもとへ帰りましょう。
【本 文】 主題「狭い門から入れ」
大きな門と狭い門に譬えられているイエスさまのお話の趣旨は何でしょうか。結論を言ってしまえば、真の神を選ぶのか、それとも偶像の神を選ぶのかというお話です。
最近今野高子さんからお茶のお点前の手ほどきを受けるようになって、聖書と茶道との共通点を感じます。今野さんが整えて下さっているお茶室への入り口はお住いの構造上、高さ約1.8mと幅1m足らずのドアーから何の苦労もなく入ることが出来ます。しかし作法通りのお茶室は高さ2尺2寸5分、幅1尺9寸5分、これをメートル法に換算すると、高さ約68.2、幅約59.1という本当に狭い狭い入り口です。これを躙(にじ)り口と言うそうです。ここを入る為には頭を低くし、正座の状態から両手を支えにして膝から躙り入らなければなりません。これを考え出したのは千利休という茶人です。利休は一体どこからこんな窮屈な入り口を考え出したのでしょうか。それは何と今私たちが読んでいますマタイ7:13をヒントにしたのだそうです。勿論茶の湯に使用されている抹茶は、中国の宋の時代から工夫され、改良されて奈良時代に日本に伝えられたと言いますから、茶道は千利休より遙か昔から連綿と伝えられてきました。それでも近世茶道の基本を完成させた千利休の功績が大きいと言われるのは、彼の生きた安土桃山時代と言う背景を抜きにしては考えられません。この時代は華やかな文化、文明開化の時代でした。彼は大阪の南、堺の人でした。堺の町は昔も今も自由の気風に満ちた大きな町です。その北に隣接する浪華の町は当時政治の中心地であり、また経済を牛耳っていました。独裁者豊臣秀吉は万事に派手好みの人で、さながらイスラエルのソロモン王を彷彿させる贅沢三昧な上流社会を形成していました。そのような時代に茶人利休は身分の隔てなく茶の心を教えていましたが、同時に上流階級との付き合いの中で自由とは何か、豊かさとは何かを追求していました。数ある高弟の中に高山右近ら多くのキリシタン大名がいました。彼らを通して聖書に触れる機会に恵まれ、聖書を通して本当の自由と豊かさを遂に究めました。それが躙り口であり「和敬清寂」という侘(わ)び、寂(さび)の世界です。この世の一切の権力や名声から自由にされる世界を茶室に見出したのです。身分の隔てなく誰彼無しに招かれている茶室、しかしそこに入るには一つまた二つと手にしているもの、身に纏(まと)っているもの、心に装っている者を剥(は)ぎ取られるのです。頭を低くしないと権威の象徴である髷(まげ)が邪魔になります。茶室の中では身分を象徴する上下(かみしも)や刀は不要です。武士の「士」と言う文字は「一から十まで学ぶ者」という意味があるそうです。利休はこの小さな茶室の中で、一から十まで学ぶべき武士の有り様(ありよう)を教えたかったのだと思います。何と雄弁にマタイ7:13,14を語っていることでしょうか。
この世が将来を約束してくれる門を通る為には、色々な物を身につけることが求められます。大学入試の為には沢山知識を詰め込んでおく必要があります。就職試験に受かる為には高い専門性が要求されます。高度な先端技術を身につけておかなければ、この厳しい社会情勢について行けないでしょう。そのような門を一つまた一つとクリヤーすることがこの世で安心して生きて行く為に欠かせないのです しかしこの世のつとめを終えて、永遠の世界を目指すべき時が来ます。その時になってくぐり忘れていた門があったことに気が付いてももう遅いのです。実にその門こそキリストの教会です。教会(教会堂のことではありません)こそ全ての人に提供されているたった一つの天国への門なのです。この門に立つ者はこの世とは逆に私たちがこれまで営々と気付いてきた一切の物を捨てなければならないことを知るでしょう。身一つで入らなければとても通れない程狭い入り口なのですから。
ところで命に至る門は本当に狭いのでしょうか。「庭の入り口には、青、紫、緋色の毛糸、および亜麻のより糸で織ったつづれ織りの20アンマの幕を張り、4本の柱と4個の台座を作る」とあります(出エジプト記27:16)。これは後のエルサレムに建設された神殿の模型、また現代の礼拝堂の原型です。驚くべきは神の幕屋の入り口の幅は20アンマだと言います。メートル法で換算すると約 10.5mです(神殿建築用の1アンマは通常の1アンマに片手の長さの分を加えたもの−エゼキエル 40:5)。どこの世界に10.5mもの幅の門があるでしょうか。その上この門は鉄や木の扉ではありません。青、紫、緋色、白と色々とりどりの糸で織られた柔らかい布製です。四六時中誰でも入ることが出来る為です。当然閂(かんぬき)もなければ鍵もありません。つまりモーセを通して神が造らせた礼拝堂の入り口は世界一広いのです。これこそ天国の門の見事な雛形(ひながた)です。のように神は誰でもこの入り口を通って入ってきなさいと招いておられます。人種、年齢、性別、身分、各界階層をこの入り口は問題にしません。天国の門は誰にでも広く開かれているというしるしです。
こんなに広い「命に通じる門」が、昔は広かったのに、今は狭くなったというのでしょうか。いいえ、昔も今もこの門は広いのです。それを狭くしているのは私たち人間の方なのです。人間の血管は歳と共に変形はするでしょうが、内径が収縮するのではないと思います。欠陥の流れが悪くなるのは、大部分が悪玉のコレステロールが血管内部に溜まり、流れを邪魔するからでしょう。同じように天国の門が長年の間に老化して狭くなったのではありません。高慢や偽り、好色や偶像崇拝、悪い生活習慣、目先の損得でしか人生を考えられない浅薄な知恵、そう言った罪過と言う悪玉のコレステロールが天国の門を自分で狭く通りにくくしてしまっているのです。一番大きな間違いはこの世の門を通ることばかり考えて、真の道であるイエスさまに来ないことです。もう一つは罪過という悪玉のコレステロールのためです。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われました。命に至る門とその道はイエスさまを救主、キリストと信じる信仰だけです。2千年この方イエスさまは十字架の上で血塗(ちまみ)れになりながら、両手を一杯拡げてあなたを招いて下さっているのです。今信じ、悔い改めて主イエスの許へ立ち帰りましょう。
祈りましょう。
天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。 狭い門から入れとあなたは仰せになります。私たちは実に入りやすい門ばかりを求めていました。しかしその先にあるものは滅びに至る道であることを改めて気付かせて下さいましたあなたの御言葉を感謝します。罪を捨てると言うことは勿論私たちの願いですが、実際にその場に立たされてみると、どうしても捨て切れません。だからあなたが折角大きく拡げて待ち受けて下さる命に至る門が狭苦しく感じられてしまうのでした。しかし私たちは今日イエスさまを信じる決心をしてみると、これまであんなに大事に抱えていたものが、まるで色褪せて見えます。あなたが十字架の上に血を流し、命を捨ててまで私たちのために勝ち取って下さった永遠の命という絶大な富を、私たちに与えて下さったからです。主よ、今私たちはあなたに一切を委ねて従います。どうか命の門をくぐり、御国への第一歩を踏み出す者として下さい。 私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。