主日礼拝メッセージ
「ただ、お言葉を下さい」
聖書: マタイによる福音書8章5−13節
主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすればわたしの僕はいやされます。(マタイ8:8)
【要 旨】
「ただ、お言葉を下さい」とこの人は言いました。
この人とはローマの兵士で百人隊長です。シェ−ンキェビッチの小説「クォヴァディス」によれば「百人隊長」は皇帝の命令に従って死刑の判決を伝達する任務を担う者でもありました。将軍であろうが、貴族であろうが、彼がその屋敷の前で「閣下、御出頭願いますと言うだけで震え上がります。中にはその職権を悪用して私利私欲に走る者もあったそうです。しかしこの百人隊長は神を畏れる人で、ユダヤ人の間でも大変評判の良い人でした(ルカ7:3,4)。それでも異邦人が直接ユダヤ人のラビに面会を申し出ることにはユダヤ人の側に抵抗感があるだろうと配慮して、代理人を立てて僕の癒しを願い出ました。主イエスはこの求めを聞いて即座に「行って上げよう」と応じて下さいました。しかし百人隊長は新たな使いを送り「あなたを我が家にお迎えする資格は私にはございません。ただおことばを下さい。そうすれば僕は癒されます。自分は権威の下にある者ですが、自分の部下も命令一つで従ってくれます」と言わせました。主イエスは大いに感心して「イスラエルの中にもこれほどの信仰を見たことはない」と言われました。軍隊では上官の命令は絶対です。百人隊長は主イエスのお言葉はそれにも優って権威があり、不可能を可能にする全能の神の力そのものであることを確信していたのです。
今日からクリスマス・アドベントです。この百人隊長の信仰から、私たちもこの月の本当の過ごし方を学ぶことが出来ます。肉の目ではなく信仰の目を開いて頂き「ただ、お言葉を下さい。そうすれば私の罪に病んだ心が癒されます。清められます」と祈りつつ、クリスマスを待ち望みましょう
【本 文】 主題「ただ、お言葉を下さい」(待降節第一主日礼拝)
日本バプテスト連盟では今日から来週にかけて「世界バプテスト祈祷週間」(以下「祈祷週間」)です。先程岡本綾子姉を通してそれぞれの国で、宣教師としてご活躍の先生方、またそのご家族、そして現地の人々と教会の様子をお聞きして良く分かりました。私達はこれらの働き人を覚えて祈り、献げ、また召命に応えて献身する者でありたいと思います。同時に私たちの教会はインドネシアで今も孤軍奮闘されている木村公一先生とご家族の存在を忘れることは出来ません。先生は連盟理事会との間で、いわゆる神学的に言う宣教論で噛み合わず、結局連盟派遣宣教師としての任を解かれることになりました。幸い平尾バプテスト教会は先生を「国外宣教担当牧師」として位置づけ、あくまでも世界福音を担う働き人として、その重要な任務を今後とも彼に託そうと決断し、実行して下さっています。これは非常に重い意味を持っています。その昔ジョン・ウェスレーは英国国教会から、国教会の許可なく福音を伝えてはならない旨の制約を受けた時、彼は「世界は我が教区である」と宣言して、敢えて国教会という枠組みを超えて、たといそれが「隣の町」であろうが、「遠い外国」であろうが、主にあって救われるべき魂がそこにいる限り、福音を伝えることは国教会の許しを待つまでもなく、主から託された重要な任務、ミッションであると理解し、宣教の業を継続して行きました。彼が主から示されたこのヴィジョンの背景には「全き愛」と言う聖書の御言葉の支えがありました。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」(ヨハネ4:18−口語訳)がそれです。このようにして産まれたのがメソジスト教会です。
しかし木村先生も、また彼に国外宣教担当牧師としての任を託す平尾教会も、日本バプテスト連盟から独立しようと言う意図はありません。むしろこのミッションこそ連盟の働きの一翼を担うものとして理解している平尾教会の決断の意味は大きく、且つ重いのです。
今日は「祈祷週間」です。この祈祷週間を最初に提唱したロティー・ムーンは「クリスマス・アドベントを記念して、その第1週から第2週にかけて、特に祈る日としましょう」と提案して今日に至っています。何故この日なのでしょうか。ムーン女史は言います。「イエス・キリストがこの世界に来て下さった目的を思い起こすのに最も相応しい日です。だから、この日に世界中のまだ救われていない人々に思いをよせましょう」と。
今日与えられた御言葉にもう一度目を向けて下さい。ローマ軍の百人隊長がイエスさまに部下の病気の癒しを求めたと言うお話です。この出来事はもう一人の福音書記者によっても記録されています(ルカ7:1−10)。マタイと少し違ってルカでは代理人を立てて依頼しています。ルカの方がその場の情景を詳しく伝えているように思います。異邦人がユダヤ教のラビと接触することがはばかられた時代であったことを思えば、代理を立てる事の方が自然だったと思われます。シェーンキェビッチの「クォヴァディス(主よ何処に)」という小説の中で、当時百人隊長がいかに恐れられた存在であったかが分かります。ユダヤ人はもとより、ローマの将軍であろうと、貴族であろうと、この人がそのお屋敷の門を叩き「閣下、御出頭願います」と言おうものなら、それは皇帝から死刑を宣告されたと覚悟しなければならなかったそうです。泣く子も黙る百人隊長と言われていました。ですから、中にはその職権を利用して私利私欲に走る者も多かったようです。しかしこの人はそうした中で数少ない神を畏れる人でした。だからこそ彼は主の前に近づくことをはばかって代理人を立てたのでしょう。イエスさまはその求めを聞いて直ぐ「行って上げよう」と応じて下さいました。「イエスさまが我が家に来て下さる」という報せを受けた百人隊長は「それはありがたい」と喜ぶかと思えば、新たな使いを立てて「あなたさまを我が家にお迎えする資格は私には御座いません。ただお言葉を下さい」と言い、更に「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(ルカ7:6−7)と、訪問を辞退しました。イエスさまはこれを聞いて「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と非常に感心されました。 軍隊では命令は絶対です。この百人隊長はイエスさまのお言葉はそれにも優って、あらゆるものを従わせ、かつ実現させる全能の神の力そのものであると堅く信じていたのです。何という信仰でしょうか。
今日からクリスマス・アドベントです。イエスさまのお生まれを待ち望む日々が始まります。確かに私達は2千年前のユダヤ人のように、肉眼で主イエスを見ることは出来ません。しかしこの百人隊長の信仰が、私たちにクリスマス・アドベントの本当の意味を教えてくれています。 私たちは肉の目ではなく、信仰の霊の目を開かせて頂き「ただお言葉を下さい。そうすれば私の罪に病んでいる心を清くし、そして癒して頂くことが出来ます」と祈りましょう。このようにして日々イエスさまを待ち望むことが、真にクリスマス・アドベントの日々を過ごすことなのです。祈祷週間の提唱者ロティー・ムーンも、世界中で魂の救いの為に働いておられる宣教師達も同じように「ただ、お言葉を下さい。人々の癒しと救いのために」と祈りつつ、主の名によって今日も働いておられるのです。
祈りましょう。
天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。 今日からクリスマス・アドベントに入りました。今から2千年の昔、あなたはその独り子イエス・キリストをこの世界に遣わして下さいました。この上ないクリスマスプレゼントです。感謝します。確かに今日私たちはイエスさまのお姿を肉の目に拝見することは出来ません。しかしあの百人隊長が「あなたをお迎えするに足る家ではありません。ただお言葉を下さい」と信仰の告白をしましたように、そしてあなたは確かにその求めに時間を超え、空間を超えて全能の力をもってお答え下さいましたように、今も生きて働いておられる神よ、私たちもまた私たちの心は余りに汚れています。あなたをお迎えするに相応しくない者です。しかし私たちは今恐れつつも、だからこそ私たちのこの心の中に宿り、あなたのお言葉をもって清め、また癒していただきたいのです。ただお言葉を下さいと祈り待ち望むことによって、あなたと出会わせて下さい。私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。