1999年12月5日

主日礼拝メッセージ

建て方に注意せよ 

聖書: 气Rリント3章10-17節

わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 (气Rリント3章10節)

 

【要 旨】

 今日は私たちの教会がこの地に根を下ろして満37年の節目にあたる記念の主日(厳密には1962年12月1日が伝道開始日)です。この良き日に私たちは气Rリント3章10節以下を通して、今私たちが仙川キリスト教会の一員とされていることの意味を学びたいと思います。

 使徒パウロは一つの手紙を書こうと思い立ちました。宛先はコリントにある神の教会(1 : 2)です。続く文面からこの教会に起こるいくつかの由々しい問題に心を痛める数名の信徒が相談を持ちかけたことへの返信であることがわかります。C (コリント教会員の相談の手紙)→P (パウロの返信、即ち气Rリント)  C →(なお続く教会内の争いを知らせる手紙)→P (かなり厳しい内容の返信、失われてしまった“涙の書簡”コリント2:4-11を参照)→C (それによってコリント教会は悔い改めたとの手紙)→P(慰めのコリント書)という往復書簡の一つです。

 ここで短いメッセージを仙川教会の愛するメンバーにお伝えします。土台であるイエス・キリストから離れないで下さい。「かの日」(試練の日)に耐えられる信仰という材料であなたの生活を築いて下さい。あなたの内に聖霊が宿っておられることを忘れないで下さい。教会は内住の御霊に支配されたあなたたちによって組み合わされているのだということをいつも心に留めて下さい。


 【本 文】  主題「建て方に注意せよ」(宣教開始37周年主日礼拝) 

        

 今日は私たちの教会がこの地に根を下ろして満37年の節目に当たる記念の日(厳密には1962年12月1日)です。この佳き日に私たちはコリントの信徒への手紙を通して今私たちが仙川キリスト教会の一員とされていることの意味を学びたいと思います。

 使徒パウロは一つの手紙を書こうと思い立ちました。宛先はコリントにある神の教会(1:2)です。この教会に起こりつつある、幾つかの由々しい問題に心痛める信徒たちが使徒パウロに相談を持ちかけたことに対する牧会的返信です。新約聖書にはコリントの信徒への手紙は2つ残されていますが、実際にはもう1つありました。この手紙が元で、コリント教会の中が一時騒然となりました。再び信徒数名がパウロにその報告をしました。今度はパウロは更に強い調子で、しかも涙ながらにコリント教会の中で、罪の誘惑から離れない者たちの罪を指摘し、悔い改めを迫りました(コリント2:4−11参照)。これは現在失われていますが、いわゆる「涙の書簡」と言われているものです。それによって、罪の誘惑に陥っていた信徒たちは悔い改めました。彼らが悔い改めたと言う報せを受けたパウロが今度は「喜びと慰めの書簡」として出したのがコリントです。 

 盲人の音楽伝道者である新垣勉先生は、ある集まりでこのようなことを言われました。「2つの家族がありました。1つの家族は善人ばかりの家族です。しかしその家にはもめ事、争いが絶えません。もう1つの家族は悪人ばかりの家族です。しかしその家はいつも平和で幸福に満ちていました。どうしてでしょう。善人ばかりの家族は、お互いに自分は正しい。自分こそ善人だと主張をぶつけますからもめ事、争いが絶えなかったのです。一方悪人ばかりの家族は、皆が私が悪かった。ごめんよ。と心からお詫びし合っていたので、もめ事も争いも起こることがなかったのです」。

 コリント教会の問題は前者です。この手紙を読めば読むほどもめ事、争いの絶えない教会の姿が見えてきます。この姿は同時に今日のキリスト教会にもしばしば見えてきます。私たちの教会の為にも、大切な意味を持っていると言えます。共に学びましょう。

 

一、私たちの土台とすべきものは何か

 使徒パウロは11節で、イエス・キリスト以外の土台を据えてはならないと言います。教会がイエス・キリスト以外のものをその土台に据えるなどあり得ないと思うのですが、教会の歴史は実にこの点で多くの過ちを犯しました。時にはイエス・キリストを押しのけて自分が礼拝の対象者であるかのように振る舞った教会指導者もいました。或いは聖書を書き換えてイエス・キリストをただの人間として読ませて、イエスに代わって「自分こそが再臨のキリストだ」と偽って君臨する者がいます。これらはみなイエス・キリストというすでに据えられた土台を無視して他の土台を据える人のことです。イエス・キリストを土台とする教会とはどんな教会でしょうか。それは常に十字架を仰ぎ見ている教会です。新垣先生の言葉を借りて言うなら「私こそ悪人、罪深い者です」と謙る人々、悔い改めと赦しに満ちている群れです。

 

二、「かの日」の為の信仰という材料

 教会が教会として健全に建て上げられていくために次に大切なのは、その土台の上にどのような材料をもって、どのように建てていくかと言うことです。教会は常に「かの日」を意識していなければなりません。教会が教会として試される試練の日のことです。

 この教会が34年前に教会組織しようとした時、近隣教会から問われたのは、どんな会堂かではなく、どんな「教会」を形成しようとしているのかという信仰の中身、「信仰告白」が問われたのです。信仰にも金、銀、宝石、木、草、わらと言うランクがあるのでしょうか。それは人間の量ることではなく、主が御覧になった時明らかにされることでしょう。確かに日本の教会は第二次世界大戦の頃、国家権力に飲み込まれて、権力よりの教会形成で生き延びようとした苦い歴史があります。共同体として、個人としてどのような材料で教会組織しようとしているのかが問われたのです。試練の炎から自分一人がやっと救い出される程度の教会の信仰か。試練の中にあって、なお多くの人を主イエスに導けるような証の立つ信仰か。それはかの日にはっきりするのです。

 

三、どのような建物か

 主イエスを土台とし、環境に左右されることなく「イエス・キリストは主」と告白する信仰によって形成され、そして出来上がったものを見ると、それは「神の宮」であるとパウロは言います。アダムが土の塵から造られたとき、神はその鼻に命の息を吹き入れました。すると人は生きた者となったと創世記2:7に書かれていますように、私たちが示されるままに土台を定め、材料を組み立てていく内に、気が付くと、それは命の息を注がれた聖霊の宮として完成していたのです。教会は聖霊の内住される聖霊の宮なのです。だから教会は人間が中心であってはなりません。どこまでも主イエス・キリストの教会でなければなりません。

 バプテスト教会は会衆主義を標榜する群れです。しかし民主主義であってはならないのです。民主主義と会衆主義とどう違うのでしょう。前者は人間が中心です。人間が中心だという考えに固執すると、聖書さえも自分の気分や、都合に合わせて読み込もうとしてしまいます。恐らくコリント教会の問題はこの民主主義的思想がもたらしたものと言えましょう。確かに民主主義は全体主義よりは余程優れた思想です。しかしこれは多数の論理で成立する思想です。結局は弱者が取り残されていくのです。これに比べて後者は神を中心とした信仰の共同体なのです。会衆主義の特徴は「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない (I:ぢ(申命記6:5)と言う教えと「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である」(レビ記19:18)と言う教えに尽きます。恐れるべき方を恐れる心なしに、教会は正しく歩めません。これが聖霊の宮なる教会の姿なのです。主の教会の建て方に注意しましょう。

 祈りましょう。 

天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。  クリスマス・アドベント第2週の今日、私たちの教会は37年の誕生日を迎える嬉しい日です。 この教会が、かの日に備えて試練に耐えうる教会として成長して行くことが出来ますように、あなたのお支えを心からお願い致します。私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。                                         


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む