クリスマス主日礼拝メッセージ
「今日、お前を生んだ」
聖書: 詩編 2編1-12節
メッセージ:高橋淑郎牧師
- 主の定められたところにに従ってわたしは述べよう。
- 主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子
- 今日、わたしはお前を生んだ」 (詩編 2 : 7 )
【要 旨】
クリスマスおめでとうございます。詩編2編はメシア(キリスト)降誕の預言的詩と言われています。しかし世はこの詩の前半にあるように、徒党を組み、神に逆います。メシアを歓迎する者はいないかに見えます。だが少くとも詩人は待ちこがれています。そして御子の誕生を目撃することができたのです。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」と言われる天の父のお言葉がそれを裏付けて下さいます。
この世は「自由を得るために、枷(かせ:文語訳では「綱」。くびきをつなぐ網)をこわし、縄(口語訳では「きずな」鋤すきを結ぶ縄)を切って投げ捨てよう」とします。つまり神から独立しようと言うのです。反神論者、無神論者、不信者、偶像崇拝者、卜占(ぼくせん)者が幅をきかせる時代なのです。このような冷えびえとした心の時代に、「今日、わたしはお前を生んだ」と天の父はクリスマス・メッセージを力強く語ります。王の王、主の主のお生まれです。この方は宮殿の中にはいらっしゃいません。ベツレヘムという片田舎にある家畜小舎の飼葉桶の中におられました。世の権力者は皆この方の前ひざまずくべきです。最も大いなる方が、最も低くなられたのですから。実にこの詩編こそ神ご自身の口から歌われたハレルヤ・コーラスではありませんか。
英国の作家ディケンズによる「クリスマス・キャロル」と言う名作があります。この上ないけちんぼうの経営する事務所がありました。その人の名はスクルージーと言います。事務所には1人だけ事務員が雇われていましたが、給料は抑え目に、仕事は多めに、クリスマスが近いというのに暖房も節約節約で、事務員は毎日寒さと戦いながら、それでも忠実に仕事に励んでいました。今日はクリスマス・イブです。スクルージーは渋々僅かばかりの給料を渡し、苦り切った顔で、仕方なくクリスマス休暇を与えました。事務員は愛する家族の待つ家へいそいそと帰って行きます。火の気のない事務所でスクルージーはぶつぶつ言いながらまだ仕事をしています。福祉団体からの寄付の申し出も冷たく追い返します。まるで世界の全てを敵に回すように、ひたすら金儲けに血道をあげる、そんなスクルージーなのです。その時です。目の前に次から次へと亡霊が現れます。彼らはスクルージーの数少ない友人で、とっくに死んでしまったはずの人達です。彼らはスクルージーの過去と現在と将来の姿を見せて、愛のない生活の末路がどんなに惨めなものかを語って聞かせ、地獄へ落ち行く身の定めを嘆きながら、スクルージーに「お前には未だチャンスがある。神を恐れて人を愛することだ」と言い聞かせて消えて行くのです。それは夢でした。しかし怖い夢です。この時から彼は生まれ変わりました。「メリー・クリスマス」を心から祝い、出会う全ての人に神の祝福をと挨拶を交わし、雇っている事務員の待遇を改善するのです。
私はこの物語を読んで、沢山の聖書の言葉を思い出しましたが、中でも一番心に焼き付いたのは「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか」(マルコ9:36)という1節です。この物語はまるで現代の日本全体の姿のように思えてなりません。20年も前にバブルがはじけ、人々は十分に教訓を得たはずなのに、今なお即物的な生き方を改めようとはしません。法の番人であるはずの警察官僚が犯罪をもみ消すという罪の上塗りをしました。権威に執着する余り、守るべき権威を失墜させてしまいました。また政治家や企業トップの金銭にまつわるくらい事件が後を絶ちません。一般社会人はマインド・コントロールされたように、会社人間になってしまっています。いつリストラされるかと怯えながら、それでも頭の中の90%以上が会社の中での人間関係や仕事のことで一杯です。一方家庭の中では我が子にどう関わって良いか分からないと言う両親が急増しています。プチ家出少年少女が蔓延しています。高校生の中途退学や不登校も後を絶ちません。そう言った様々な要因が絡み合い、出口を見失った少年少女や中高年の自殺が急増しています。第二次大戦後、物のない時代の親たちは、自分たちのような惨めな経験を子どもたちにはさせまいと、我が子の胃袋を満たすために一生懸命働きました。そんな親たちの愛情を一杯に受けた子どもたちが、やがて人の子の親となった今、欲しいものが余りにも簡単に手に入る時代なものですから、かえって子どもたちに与えるべき本当のものが分からないのです。与えたくても親自身も持っていないのです。だから有り余るほどの金や物を与えることで親の責任を果たしていると錯覚しているようです。このように日本人の大半はスクルージーなのです。アジア諸国がうらやむ富を持ちながら、冷え冷えとした心の一隅で幻想にしがみついては亡霊に怯えています。真に人は全世界を儲けても自分の命を損したら、何の得にもなりません。
この世は自由を得るために「枷(文語訳;綱。軛をつなぐ綱)をこわし、縄(口語訳;きずな。鍬を結ぶ縄)を切って投げ捨てよう」とします。つまり神から独立しようと言うのです。反神論者、無神論者、不信者、偶像崇拝者、占い師が幅を利かせている時代です。そして政治をゆがめ、社会を混乱させ、家庭を崩壊へと陥らせています。多くの人が冷え冷えとした心をもって、造り主である神に逆らい、徒党を組み「自由を得る為に神の束縛から独立しよう」と合い諮りました。果たしてこの世界は本当に自由を勝ち取ったのでしょうか。幸福になったと言えるのでしょうか。事実はその反対です。神はこのような傲慢で冷え冷えとした心の人々を憤りをもってあざ笑います。そして真の王を君臨させて、この王にこそひざまづけと言われるのです。この王とは誰でしょう。主イエス・キリストです。「今日、わたしはお前を生んだ」との御言葉こそ、真のクリスマス・メッセ−ジと言えないでしょうか。
ヘンデルは人間の立場から、信仰告白としてのハレルヤ・コーラスを神にささげました。この詩編第2編は神ご自身のハレルヤ・コーラスです。この歌を聴く者は世界のどの王であっても、主イエス・キリストの御前にひれ伏さなければなりません。なぜなら主イエス・キリストは神の独り子であり、王の王、主の主だからです。しかもこの王の王、主の主が地上に生まれ落ちた所は王宮ではなく、人も卑しむ家畜小屋、飼い葉桶の中でした。王なるキリストがこのように謙られたのですから、この世の王たちも皆、当然謙るべきです。私たちは今こそ悔い改めて、私たちのために貧しく謙られた主イエス・キリストの御前にひれ伏し、心込めてハレルヤコーラスを讃美しましょう。
祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたの御名を崇めます。 クリスマスを感謝します。王の王、主の主でありながら、人の子として飼い葉桶の中に生まれて下さった主イエス・キリストの謙虚さに私たちも学び、互いに愛し合う者、仕えることを喜びとする者とならせて下さい。今日全ての人と共にクリスマスの喜びを祝う者とならせて下さい。
私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。