【主日礼拝メッセ−ジ】                   
2005年10月2日
「み言葉は つながれない」
使徒言行録 5章17-26節
高橋淑郎牧師 

「自由」、何と美しい言葉でしょう。何ものにも束縛されないでいられるということです。ところでこの何ものにも束縛されないということについて、聖書はこのように解説しています。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(气Rリント9:19)と。聖書の自由はそれと対極に責任が伴うとか、権利の対極に義務が伴うというようなものではありません。誰に言われたわけではない。義務感や責任感からでもない、自ら進んで奴隷になることができる、ここにキリスト者の自由の秘訣があるというのです。自分から奴隷になる自由、その動機はひとえに、「すべての人を得るため」です。では、いったい誰の奴隷になると言うのでしょう。民衆に仕えるということです。未だキリストを知らない人、罪の奴隷となっている人たちに仕えるのです。その人たちを得るとは、わたしたちと同じように、キリストのものとなる、すなわちこの世の人々をキリストの救いに導くことなのです。

 使徒たちの活躍に伴って一人ひとりの信仰が祝福され、礼拝に集められる人の数も増えたとき、ユダヤ教の指導者たちの心に嫉妬心が湧き出てきました。嫉妬心は使徒たちに対する怒りとなりました。幾日か前の新聞に、「他人攻撃は最大の自己防御なり」という格言を引いた記事を見ましたが、大祭司たちは自分の指導や聖書理解を省みることをしないで、使徒たちに怒りの矛先を向けたのです。公権力をもって彼らの活動を制限もしくは停止させようとしました。しかし、先ほどもいったように、それで彼らの口を閉ざすことはできませんでした。御言葉は縄目につながれていなかったのです。 

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