「自由」、何と美しい言葉でしょう。何ものにも束縛されないでいられるということです。ところでこの何ものにも束縛されないということについて、聖書はこのように解説しています。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(气Rリント9:19)と。聖書の自由はそれと対極に責任が伴うとか、権利の対極に義務が伴うというようなものではありません。誰に言われたわけではない。義務感や責任感からでもない、自ら進んで奴隷になることができる、ここにキリスト者の自由の秘訣があるというのです。自分から奴隷になる自由、その動機はひとえに、「すべての人を得るため」です。では、いったい誰の奴隷になると言うのでしょう。民衆に仕えるということです。未だキリストを知らない人、罪の奴隷となっている人たちに仕えるのです。その人たちを得るとは、わたしたちと同じように、キリストのものとなる、すなわちこの世の人々をキリストの救いに導くことなのです。
使徒たちの活躍に伴って一人ひとりの信仰が祝福され、礼拝に集められる人の数も増えたとき、ユダヤ教の指導者たちの心に嫉妬心が湧き出てきました。嫉妬心は使徒たちに対する怒りとなりました。幾日か前の新聞に、「他人攻撃は最大の自己防御なり」という格言を引いた記事を見ましたが、大祭司たちは自分の指導や聖書理解を省みることをしないで、使徒たちに怒りの矛先を向けたのです。公権力をもって彼らの活動を制限もしくは停止させようとしました。しかし、先ほどもいったように、それで彼らの口を閉ざすことはできませんでした。御言葉は縄目につながれていなかったのです。
高橋淑郎牧師
「自由」、何と美しい言葉でしょう。何ものにも束縛されないでいられるということです。ところでこの何ものにも束縛されないということについて、聖書はこのように解説しています。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(气Rリント9:19)と。口語訳聖書を読むと、「自ら進んですべての人の奴隷になった」と訳されています。要するに聖書の自由はそれと対極に責任が伴うとか、権利の対極に義務が伴うというようなものではありません。誰に言われたわけではない。義務感や責任感からでもない、自ら進んで奴隷になることができる、ここにキリスト者の自由の秘訣があるというのです。自分から奴隷になる自由、その動機はひとえに、「すべての人を得るため」です。では、いったい誰の奴隷になると言うのでしょう。民衆に仕えるということです。未だキリストを知らない人、罪の奴隷となっている人たちに仕えるのです。その人たちを得るとは、わたしたちと同じように、キリストのものとなる、すなわちこの世の人々をキリストの救いに導くことなのです。
こんな大それたことが私たちにできるのでしょうか。今朝与えられた使徒言行録5:17−26を見てください。ユダヤ教の指導者たちが使徒たちを捕らえて牢に入れました。牢にはしっかり鍵をかけ、番兵をつけて見晴らせていました。しかし、主の天使が彼らを牢から外へ出してこう言いました。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」と。彼らは言われた通り命の御言葉を語り始めました。明け方というのに、民衆は御言葉を慕い求めて集まってきました。するとまた彼らは捕えられました。その後のことは次週読むことにしますが、とにかく彼らは捕えられてもどんな妨害がはいっても語ることをやめません。これが発言の自由です。彼らが理解し、そして実践していた自由とは、不健康なこと、不道徳なことをする自由ではなく、神から賜った命の御言葉を人々に語り続ける自由だったのです。身は捕えられても、彼らの霊は何ものにも束縛されることなく、この世の知恵を語るのでなく、今も生きておられる神の言、命の言葉を語る自由を誰からも奪われることはありませんでした。自由の御霊が彼らを守っていたからです。
30年も前になるでしょうか。大韓民国からかなりの数の女性ばかりのクリスチャンが来られました。創世記5章にアダムの系図が綴られていますが、その中で最長寿者のメトシェラの名に因んで、「ミトセラ聖歌隊」の一団でした。いくつかの教会に分宿して頂きました。わたしの牧会していた教会にも約10名の方が来られました。すばらしい主にある交わりの数日間でした。何よりも感動したのは、当時の韓国は今のように民主化されていませんでしたので、観光ビザでも出入国には困難な問題が多々あったと聞いています。また滞在中物価の高い日本での日々の困難さは想像以上のものがありました。その他さまざまな制約を受けながら、しかし彼女たちの顔から笑顔の消えた日はありませんでした。母国との関係で政治的には不自由を余儀なくされていたようですが、どんなにこの世の力が彼女たちの行動を縛り付けても、彼女たちに与えられた御言葉を縛ることのできるものは何一つありませんでした。
使徒たちの活躍に伴って一人ひとりの信仰が祝福され、礼拝に集められる人の数も増えたとき、ユダヤ教の指導者たちの心に嫉妬心が湧き出てきました。嫉妬心は使徒たちに対する怒りとなりました。幾日か前の新聞に、「他人攻撃は最大の自己防御なり」という格言を引いた記事を見ましたが、大祭司たちは自分の指導や聖書理解を省みることをしないで、使徒たちに怒りの矛先を向けたのです。公権力をもって彼らの活動を制限もしくは停止させようとしました。しかし、先ほども言いましたように、それで彼らの口を閉ざすことはできませんでした。御言葉は縛られていなかったのです。自由の御霊が彼らを守っていたからです。
教会は常に妬みとの戦いの連続です。いつも気をつけなければならないのは、戦う相手を見誤ってはなりません。確かに妬みに燃えるのは人間です。それに伴ってさまざまな攻撃を仕掛けてくるのもこの世の力です。しかし、本当の敵、わたしたちが戦うべき相手は悪魔と呼ばれるサタンです。教会が低迷しているとき、サタンは安心して屋根の上で居眠りしていることでしょう。しかし、教会のメンバーが増え、伝動活動が活発になってくると、サタンは妬みます。何しろ彼は終わりの日に神に裁かれて滅びの世界、地獄へまっさかさまに落とされることは確かです。しかし、彼はそんな恐ろしいところへ独りで行きたくないのです。ひとりでも多くの人間を道連れにしたいのです。それなのに、人々が聖書に目覚め、イエス・キリストの福音に耳を傾け、救われる人が増えることは我慢ならないのです。妬みに燃え、怒髪天に達します。天地創造の初め、言葉巧みにアダムとエバを神の祝福の世界から引き摺り下ろすことに成功したように、今度も大祭司たち、ユダヤ教の指導者たちのうちに妬みを起こさせ、彼らをもって教会に挑みかかりました。しかし、使徒たちの目はしっかりと戦うべき相手を見極めていましたから、大祭司たちを呪うようなことはしませんでした。それどころか、使徒たちの目には彼らも救われるべき求道者と見なし、物理的に戦うことをしませんでした。
仙川キリスト教会も今日少しずつではありますが、礼拝に集う人の数が増え、バプテスマや他の教会からの入会希望者も増えつつあります。こういうときこそサタンが活動を活発に仕掛けてくることを思い、霊の目を覚ましていなければなりません。再臨の主イエス・キリストがいつ来られても良いように目を覚ましていなければなりません。サタンの挑発に乗って、兄弟姉妹が互いに反目し合うことのないように、牧師と信徒が心を一つにこのことのために祈る者でありたいです。 祈ります。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
初代の教会は使徒たちの指導の許、成長を遂げていくと、サタンもまた活発に妨害しました。しかし使徒たちはどんなに迫害されても宣教活動をやめませんでした。聖霊が天使を通して、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず語り続けよ」とお命じになったからです。全能の神がともにいてくださるとき、この世の鎖も獄も彼らを縛り続けることはできませんでした。いや、み言葉を繋ぎ止めておくことはできませんでした。
主よ、どうぞこの仙川キリスト教会もいつも御霊による自由で満たしてください。サタンの妨害にもめげず、命のみ言葉を語り続ける群れとしてください。互いを喜び、互いを尊ぶ群れとして、これからも成長させてください。
私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげいたします。アーメン。