【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年8月31日                      
「枯れる種、実る種」

マルコによる福音書4章1-20節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 この福音書の中の農夫はずいぶんいい加減な種の蒔き方をしていることになります。しかしこれはあくまで譬話です。たとえ話とは身の回りの事柄を用いて神の国の真理を分かりやすく教えようとするものですから、ある部分フィクションがあっても良いのです。さらにここでは「あなたがた」といわれているグループと「外の人々」と呼ばれているグループがあります(10〜12節)。主イエスが譬話を用いる対象は、この「外の人々」であります。その理由を主イエスはイザヤ書6:9〜10の預言を引用して、「あなたがた」と呼ばれている12人の弟子との区別をしています。弟子たちが特に優秀であったから区別されているわけではありません。その証拠に弟子たちも最初この譬の意味が分らなかったのです。話の内容を把握していなかった点では同じです。しかし弟子たちは主イエスに「その意味を教えてください」と願い出ています。「外の人々」(イザヤ書6:9〜10に該当する人々)は、はじめから神のみ言葉を理解できないように造られているというのではなく、結果としてそのように言われても仕方のない反応を示す人だという意味です。このたとえ話を聞いた人々の場合がまさに、「外の人々」なのです。彼らはこの譬話を通して主イエスがいったい何を教えようとしておられるのかと考えないのです。皆聞きっぱなしで帰って行きました。み言葉の種は空しく道端のような心の人々の上に落ちてしまいました。その種は彼らの心を支配しているサタンによって、見事に摘み取られ、家に帰り着いた頃にはきれいさっばり忘れ去られているのです。主はその後姿を見送りながら、寂しく思っておられるのです。

 「あなたがた」と呼ばれる弟子たちは神の国の秘密を聞く機会に恵まれた弟子たちです。この人たちは主イエスの口から親しくこの譬の意味するところを聴くことが出来ました。「聴く耳のある」人たちであります。しかし気をつけないとこの人たちであっても、皆がみな十分に耕された心という訳には行きません。み言葉を聴いてもそれを語っておられる方を信じて従わなければ、その心は石だらけかもしれません。茨の中に埋もれている心かもしれません。確かに蒔かれた心によって枯れる種、実る種があるのです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                     2003年8月31日                      

「枯れる種、実る種」

マルコによる福音書4章1-20節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 私たちの周りで見る田や畑はきれいに耕された上に苗が植えられ、あるいは種がまかれていますので、よほどの気象条件でない限り、ほぼ百%近く収穫されています。旧約聖書を見ても、「種を蒔くために耕す者は一日中耕すだけだろうか。土を起こして、畝を造るだけだろうか。畑の表を平らにしたなら いのんどとクミンの種は、広く蒔き散らし 小麦は畝に、大麦は印をしたところに 裸麦は畑の端にと、種を蒔くではないか」(イザヤ書28:24〜25)とあり、また別の箇所で、「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな」(エレミヤ書4:3)と教えられています。

 私はここを読むまで、パレスチナ地方の農作業は当時大雑把なものであったという学者さんたちの説を鵜呑みにしていましたが、そうではなく、あの地方でも大昔から基本を怠ってはいなかったのだということを知りました。やはり聖書は丹念に読まなければ大変な誤解をした上に、間違いを犯すのだと学ぶことが出来ました。とすれば、この福音書の中の農夫はずいぶんいい加減な種の蒔き方をしていることになります。しかし、これはあくまで譬話です。たとえ話とは身の回りの事柄を用いて神の国の真理を分かりやすく教えようとするものですから、ある部分フィクションがあっても良いのです。さらに10〜12節を見ると、ここでは「あなたがた」といわれているグループと「外の人々」と呼ばれているグループがあります。主イエスが譬話を用いる対象は、この「外の人々」であります。その理由を主イエスはイザヤ書6:9〜10の預言を引用して、「あなたがた」と呼ばれている12人の弟子との区別をしています。弟子たちが特に優秀であったから区別されているわけではありません。その証拠に弟子たちも最初この書の意味がわからなかったのです。話の内容を把握していなかった点では同じですが、弟子たちは主イエスに「その意味を教えてください」と願い出ています。イザヤ書6:9〜10に該当する人々は、はじめから神のみ言葉を理解できないように造られているというのではなく、結果としてそのように言われても仕方のない反応を示す人だという意味です。このたとえ話を聞いた人々の場合がまさに、「外の人々」なのです。彼らはこの譬話を通して主がいったい何を教えようとしておられるのかと考えないのです。皆聞きっぱなしで帰って行きました。主はその後姿を見送りながら、寂しく思っておられるのです。み言葉の種は空しく道端のような心の人々の上に落ちてしまいました。その種は彼らの心を支配しているサタンによって、見事に摘み取られ、家に帰り着いた頃にはきれいさっぱり忘れ去られているのです。

 しかし、「あなたがた」と呼ぱれる弟子たち、神の国の秘密を聞く機会に恵まれた弟子たちです。この人たちは主イエスの口から親しくこの譬の意味するところを聴くことが出来ました。「聴く耳のある」人たちであります。しかし気をつけないとこの人たちであっても、皆がみな十分に耕された心という訳には行きません。その心は石ころだらけであるかもしれません。茨の中に埋もれている心かもしれません。確かに同じ種であっても蒔かれた所によって枯わる種、実る種があるものです。イスカリオテのユダのように、結局はその心の中で福音の種は育つことなく枯れてしまったのです。

 先週の木曜日、28日の朝、今日の礼拝のための準備を始めたところへ長谷川毬子姉から電話がありました。石原患男兄弟の容態が厳しい。しかし、今のところは家族を呼べという医師の指示はないが、ということでした。すぐに祈って病院に行く準備をしていますと、毬子姉から2度目の電話が入り、先ほど息を引き取られたということでした。その一瞬不思議なことに彼と過ごした約6年のあれやこれが走馬灯のように目まぐるしい速さで甦りました。神さまの燐れみというほかありません。おかげで差し迫った時間の中で2日間の前夜式と葬式の礼拝メッセージの準備が進みました。彼は礼拝後もたれるファミリー分級にも欠かさず出席しておられました。外の人が時に欠席することがあっても、彼は忠実に分級に出ておられました。私がまだ車に乗って彼を送り迎えしていた頃のことですが、昨年のある木曜祈祷会の朝、車の中で、「石原さんはいつもファミリー分級に出席しておられますが、どういうところに魅力を感じているのですか。」と尋ねたことがあります。すると、「吉野さんが礼拝のメッセージを噛み砕いて話してくれるので、それが楽しみなんだよ」という返事が返ってきました。もちろん礼拝メッセージの咀嚼は吉野兄弟だけでなく、分級出席者全員でしているのですが、彼の耳には誰の声も、誰の言葉も吉野兄のものと聞こえたのでしょう。それはそれとして、失礼ながら、私はそれを聞いてぴっくりしました。礼拝中も分級の間もじっと目を閉じているので、眠っているのだろうと思っていたのですが、彼はしっかり聴いていたのです。

 そして今年の8月28日、不思議なことに彼が召されたのは、彼が欠かさず出席していた木曜日の朝でした。通常であれば、析祷会の時間です。その時間に彼は天に召されたのです。毬子姉から知らせを受けて、病院まで電車、バスと乗り継ぎながら、私はその朝読んでいたこのマルコによる福音書4章をもう一度開きますと、11節が私の目に飛ぴ込んできました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」というみ言葉が、「吉野さんがメッセージを噛み砕いて話してくれる」という石原兄弟の言葉と重なりました。彼は礼拝のメッセージに耳を傾けていたのです。そしてもっと知りたいという思いが彼の内に働いていたのです。まさに彼はその心を何とか耕し耕ししてみ言葉の種を受けたいと努めていたのではないでしょうか。

 祈りましょう。

天の父なる神さま

 あなたのお名前をあがめ、心から讃美いたします。

 あなたはすべてのみ言葉の基本となる教えを、今日与えてくださいました。どんなに清いみ言葉、幸いな福音を聞いても、それを正しく受け止める心が備わっていなければ、一切は空しいのです。主よ、毎週の礼拝で、また祈祷会で、そして個人的なデボーションの中でわたしたち自身が「外の人々」と呼ばれるような聞き方でみ言葉を、メッセージを受け流すということがありませんように。聴く耳をもって聴き取ることが出来ますように。艱難や迫害が押し寄せてきても、この世の思い煩いや富の誘惑に心が揺さぶられることがあっても、み言葉はわたしを裏切らないという確信に立ち、あなたのみ言葉によってさまざまな悪しき力に勝利させてください。そして弱いわたしたちを支え、導いてください。わたしたちの救い主イエス・キリストのお名前を通してお願いします。アーメン。


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