【主日礼拝・メッセージ要約】                   2003年9月21日                      
「最初は小さいが」

マルコによる福音書4章26-34節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝与えられたみ言葉は二つの譬話です。二つとも植物の種とそれを受けて成長させる大地の力が中心的に語られています。農夫は田畑を十分に耕して麦の苗を植え、また野菜の種を蒔きます。空模様や季節の移り変わりに心を配ります。水を枯らさず、折々に草を抜きます。それほど努力をしても人間の力ではどうすることもできないことがあります。作物を成長させて下さるのは神の力だからです。農夫は全能の神に委ねてなすべきをなし、それ以上のことは神に委ねるのです。これが「夜昼寝起きしているうちに」というみ言葉の意味です。皆さんもよく知っておられるラジオ体操の時間を告げる歌に、「新しい朝がきた、希望の朝が」という一節があります。この歌に代表されるように、わたしたち日本人の一日は朝から始まるのです。「さあ、働こう。勉強しよう」と言いながら人間の努力を前提に考える日本人にはなかなか神を信じる思いが湧き上がってこないのかも知れません。しかしユダヤ人の一日は日没から始まります。このラジオ体操の歌をユダヤ人流に歌うと「新しい夜が来た。希望の夜が」ということになるでしょう。「さあ、寝よう。体を休めよう」と神に全てを委ねて一日を始めるユダヤ人との違いです。

 続く「土はひとりでに」のひとりでにと訳されている言葉は、英語のオートマティックという言葉の語源なのです。今は何もかもがオ−トマティックの時代です。色々なものがスイッチやボタン一つで思い通りになるのです。全く不思議なことです。しかしこれらを作った人にとっては不思議でも何でもありません。「土はひとりでに」とは偶然の産物ではありません。わたしたちの目には不思議でも神が全てを導いて下さっているから、芽が出、茎が伸び、穂が膨らみ、そして穂の中に実ができて行くのです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                    2003年9月21日                      

「最初は小さいが」

マルコによる福音書4章26-34節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスは譬(たとえ)を用いて神の国のことを語られました。譬話には解釈が必要です。話は単純で興味を引くものですが、その中に隠されている真理に到達することは容易ではありません。聞く力が求められます。聞く力とはそれを解釈する能力のことではありません。むしろこの譬にはどういう意味があるのか知りたいと聴く耳を持つことです(23節)。ですから熱心に求めてくる弟子たちにはひそかに全てのことを説明して下さいました。主のみ心を求める熱心さ、これが聞く力なのです。わたしたちもこのことを心に留めながらみ言葉に聴いてまいりましょう。

 

 今朝与えられたみ言葉は二つの譬話です。農夫は田畑を十分に耕して苗を植え、また野菜の種を蒔きます。空模様や季節の移り変わりに心を配ります。水を渇らさず、折々に草を抜きます。それほど努力をしても人間の力ではどうすることもできないことがあります。作物を成長させて下さるのは神の力だからです。農夫は全能の神に委ねてなすべきをなし、それ以上のことは神に委ねるのです。これが「夜昼寝起きしているうちに」というみ言葉の意味です。皆さんもよく知っておられるラジオ体操の時間を告げる歌に、「新しい朝がきた、希望の朝が」という一節があります。この歌に代表されるように、わたしたち日本人の一日は朝から始まるのです。「さあ、働こう。勉強しよう」と言いながら人間の努力を前提に考える日本人にはなかなか神を信じる思いが湧き上がってこないのかも知れません。しかしユダヤ人の一日は日没から始まります。このラジオ体操の歌をユダヤ人流に歌うと「新しい夜が来た。希望の夜が」ということになるでしょう。「さあ、寝よう。体を休めよう」と神に全てを委ねて一日を始めるユダヤ人との違いです。続く「土はひとりでに」のひとりでにと訳されている言葉は、アウトマテーというギリシャ語が用いられています。英語のオートマティックという言葉はこのギリシャ語をご先祖として生まれました。今は何もかもがオ−トマティックの時代です。いろいろなものがスイッチやボタン一つで思い通りになるのです。全く不思議なことです。しかし頭のよい人、とりわけこれらを作った人にとっては不思議でも何でもありません。「土はひとりでに」とは偶然の産物ではありません。わたしたちの目には不思議でも神が全てを導いてくださっているから、芽が出、茎が伸び、穂が膨らみ、そして穂の中に実ができて行くのです。

 続いて主は「からし種」の譬を語られます。かつて西南学院大学神学部の小林洋一先生から二通りのからし種をいただきました。どちらが主イエスのたとえ話にふさわしいか育ってからの楽しみですよ、といわれました。新会堂ができて、余地があったら蒔いてみようと思っています。わたしの知っている種類の種は本当に小さなもので、一粒の直径が1@もありません。もちろん重量感もほとんどありませんから、種を蒔くときには気をつけて呼吸をしないと、少しの鼻息でも吹き飛んでしまいます。そんなに小さいのに育つと高さ4〜5mにもなります。しかしまだ鳥がその葉の陰に巣を作るのを見たことがありません。育った場所が人通りの多いところであったからでしょう。

 先週、教会からお休みをいただいて京阪神から九州にかけて親戚巡りをしてきました。叔父と共に宮崎バプテスト教会の礼拝に与り、蓮池牧師と旧交を温めることができました。鹿児島ではマウマウタン牧師ご一家と再会できました。マウマウタン先生がいらっしゃる国分市ではまだまだ耕作面積の広い田畑があり、刈り入れを待つ黄金色の稲穂が風に棚引いている光景は見る者の体も心も癒してくれました。農夫にとって一年の苦労が報いられたこの時期でしょう。主イエスもきっと同じような光景を向こうに眺めながらこの二つのたとえ話をなさったのではないでしょうか。

 宮崎駅に近い小さな児童公園にひっそりと銅像が建っています。サイラス・クラーク(1851年6月11日、ニューヨーク州ダリエン生〜1933年2月4日、カリフォルニア州クレモントで召天)という無名の宣教師です。北海道大学の前身「札幌農学校」で教えたウィリアム・クラーク(1826〜1886年)は滞日僅か一年(1876〜1877年)であったにもかかわらず、「青年よ、キリストにあって大使を抱け」という言葉を残して一躍有名になり、今も多くの日本人の記憶にあります。しかし同時代に宮崎の地で33年の間ただ福音宣教一筋地道に働いたサイラス・クラーク宣教師の名を知る人はほとんどいません。石井十次の事業に経済的サポートをした一人、柿原政一郎の長女で竹本哲子と、作家高見沢潤子の記録によると、クラーク夫妻はまだキリストに対する偏見が根強い宮崎の地で石を投げられながら、黙々と伝道を続ける傍ら児童教育や、女性の地位向上のために県立高等女学校の設立と経営に側面から援助を惜しみませんでした。更に視覚障害者に対する理解のなかった時代に、そのための教育機関を設立しました。このように宣教師の働きを続けながら黙々とキリストに仕え、県民に仕え通しました。その33年の間、著名な人にも無名の人にも、高い教養の人にも無学な人にも、裕福な人にも貧しい人にも、高い地位の人にも低い身分の人にも態度を変えない人でした。奉仕も援助も目立たないように心がける人、決して自分の名を表に出さない、そういう謙虚さが信仰のあるなしにかかわらず、県民の尊敬を集める処となりました。生涯を宮崎に献げたいと願い、市内に墓地を作り、中国旅行中に召された夫人の骨をそこに埋め、その隣には自分のための墓を造りましたが、彼自身は米国伝道局の規定によって帰国しました。そしてカリフォルニアで82年の生涯を閉じました。遺族は遺言どおり、宮崎市に用意しておいた墓に埋葬したということです。銅像は彼の召天から34年後に、かつての児童たち有志がクラーク氏の愛に感謝する意味で建てたものであります。

 この宣教師の存在こそ一粒のからし種ではないでしょうか。それは地上のどの種よりも小さなものとして地にまかれましたが、成長してやがて多くの実を結ぶに至りました。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま

主イエスは、わたしたちに新たな会堂を建てるというビジョンを与えてくださいました。それは全ての造られた人々に福音を伝えよとのご命令を果たさせるべく、ご計画に基づくものと思いを一つにしております。

伝道は気の遠くなるほど時間のかかるもの、時につらく厳しいものです。しかし、主は今朝わたしたちに勇気を与えて下さいました。わたしたちは自分の力にではなく、全能の主にこそより頼み、とにかく福音の種を蒔き続けることであるというこの単純で一番大切なことを学びました。わたしたちが伝道し、わたしたちがその人を救えるなどと思い上がってはなりませんでした。わたしたちが蒔いた種をその人のうちで育て上げ、成長させてくださるのはあなただからです。わたしたちをあのクラーク宣教師のように小さな小さな一粒のからし種として下さい。わたしたちの生涯をただあなたの栄光のためにのみ用いてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストのお名前を通してお願いします。

アーメン。

 


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