メッセージ 高橋淑郎牧師
映画化が予定されている石井十次という名をご存知でしょうか。彼は幕末の頃、上杉鷹山の実家高鍋藩士の子として生を受けました(1865年、慶応元年)。高鍋は宮崎市から約26Km東北東に位置する小さな町です。長じて結婚後も荒れた生活をしていましたが、病を得て宮崎病院に入院し、クリスチャン医師荻原百々平(おぎはらどどへい)院長と運命的な出会いをします。院長からキリスト教の影響を受けて医学の道に進むことを考えました。退院後院長の勧めで岡山の医学校に入学し、2年後クリスチャンとなりました。当時の日本は富国強兵が叫ばれ、政情不安の上に経済格差も日増しに拡大していました。一番の犠牲者は貧しい人々、とりわけ子どもたちです。親に捨てられた幼子が毎日のように飢え死にする有様を見て、このまま医学の道に進むか、それとも子どもたちのために一身を投げ打つか石井は悩みます。祈りに祈って彼は持っていた医学書を全て焼き尽くし、児童救済に献身しました。岡山に孤児院を建てましたが、救済の対象は県内の子どもたちに限らず、名古屋を襲った濃尾地震の被災児90名余、東北地方を襲った基金の犠牲となった児童1,200名をも引き取りました。毎月の生活費は篤志家の援助に頼る外ありません。彼は寄付集めに奔走しながらも、園内に幼稚園・学校などを作り、養育と教育に熱心でした。その後ルソーの作品「エミール」に感動して、宮崎県茶臼原(西都市に隣接)に230haの広大な敷地に「自然教育の施設」を作り、子どもたちを岡山から大移住させました。しかし病魔が彼を襲い、志半ばにして49歳の若さで天に召されてしまいました。しかし、今もその事業は継承されています。
石井十次をしてこの事業に駆り立てたものは何だったのでしょうか。彼はあの時、彼の心のうちに、「向こう岸へ渡ろう」と言う召命が聞こえたのです。医学校を卒業してからでは遅い。今わたしと共に人々から見捨てられている哀れな魂が待ち受けている彼の地へ行こう」という主キリストの御声を聴いたのです。
【主日礼拝・メッセージ】 2003年10月5日
メッセージ 高橋淑郎牧師
先週は主キリストに従う弟子の道を学びました。キリスト者であっても世の人と同じように試練の嵐が突如襲ってくることがあります。しかし、キリスト者には世の人が知らない救いの道があります。それは祈りです。祈りを聞いてくださる方です。けれどもわたしたちはエリート集団ではありません。キリストの教会だけが守られてよしとしていてはならないのです。向こう岸にいる人、まだイエス・キリストを知らない人々がいることを忘れてはならないのです。
今朝はこの物語の舞台となるガリラヤ湖の特徴をお話しておきましょう。と言っても本当はそこに足を踏み入れたことのないわたしには語る資格がないのでしょうが、耳学問と物の本から得た知識で知ったかぶりして語ることをお許し下さい。この湖は東西12km、南北20km、総面積は約166I(日本の霞ヶ浦は約178I)で、湖面は地中海の海面から212mも低い位置にあります。ヨルダン川が北西から注ぎ、南西に流れ出ています。西岸は山々が円形劇場の形をなし、なだらかな平原が湖畔に達していますが、東側は火山地帯で繰り返す噴火で切り立った断崖が湖畔に迫っています。その為時間と共に風向きや気温の変化に伴い突風が湖面に吹き込むことがあるということです。
地形も気象条件も知り尽くしているはずの主イエスがどうしてこの時間にわざわざ、「向こう岸に渡ろう」などと言い出されたのでしょうか。余程急ぎの赴きか、約束でもあったのでしょうか。5章1節以下を見ると分かります。悪霊に憑かれた人を救うためです。普通はそこまでするでしょうか。この人には悪いのですが、そこまでする値打ちのある人なのでしょうか。そうだとしてもそんなに急がなければならないことなのでしょうか。夜が明けて波間が穏やかになる時間を待つことはできなかったのでしょうか。聖書はこのように所々わたしたちの理解を超える主イエスの行動を記録しています。この主の行動を通して聖書はわたしたちに何を教えているのでしょうか。伝道とはこうしたものだということです。なぜ今なのか、なぜあの人なのかという、冷静に考えると一見無駄、無謀と思えることの中に主イエスの御心が見えてくるのかもしれません。
現代プロダクションによってこのたび映画化される石井十次というクリスチャン福祉事業家の名をご存知の方が何人おられるでしょうか。彼は幕末の頃、上杉鷹山の実家である高鍋藩の一藩士の子として生を受けました(1865年、慶応元年)。高鍋は宮崎市から日向灘に沿って東北東へ約26Hの所にある小さな町です。青年石井は結婚後も荒れた生活をしていましたが、病を得て宮崎病院に入院していたところ、そこでクリスチャン医師荻原百々平(おぎはらどどへい)院長と運命的な出会いをします。彼は院長から信仰の導きを受けると共に医学の道に進むことを思い立ちました。院長の勧めで岡山甲種医学校に学びました。2年後岡山キリスト教会で金森通倫牧師を通してバプテスマを受けました(1884年、明治17年)。当時の日本は富国強兵が叫ばれ、政情不安の上に経済格差も日を追うごとに大きくなりました。そうしたときに一番の犠牲者は貧しい人々、とりわけ子どもたちです。巷で毎日のように食べるに困り果て、育てる手段を見失った親に捨てられた幼子が飢え死にする有様を見て、このまま医学の道に進むか、それとも子どもたちの為に一身を投げ打つか石井は悩みます。祈りに祈って彼は持っていた医学書を全て焼き尽くし、児童救済(養護と教育)に献身しました。岡山に孤児院を建てましたが、救済の対象は岡山県内の子どもたちに限らず、名古屋を襲った濃尾地震の被災児90名余、東北地方を襲った基金の犠牲となった児童1,200名をも引き取りました。生活費は篤志家の援助に頼るほかなく寄付集めに奔走しながらも、園内に幼稚園・学校などを作り、養育と教育に熱心でした。その後ルソーの作品「エミール」に感動して、宮崎県茶臼原(西都市に隣接)に230haの広大な敷地に子どもたちを岡山から大移住させ、「自然教育の施設」を作りました。しかし彼の情熱を支える体も激務には耐えられず、49歳の若さで天に召されてしまいました。しかし、今もその事業は継承されています。
石井十次をこの事業に駆り立てたものは何だったのでしょうか。そのまま医師の道を進み続けても何ほどかの福祉事業に携わる道が残されていたかもしれません。少なくとも医学校を卒業して医師免許をもらってからでも良かったのではないでしょうか。しかし彼はその道ではなく、敢えて厳しい環境に身を置いて神に仕えました。彼はあの時、彼の心のうちに、「向こう岸へ行こう」と言う召命が聞こえたのかもしれません。医学校を卒業してからでは遅い。今わたしと共に人々から見捨てられ手しまっている哀れな魂が待ち受けているゲラサの地へ行こう」という主イエス・キリストの御声を彼は聴いたのです。
愛する兄弟姉妹、今朝、あなたの助けを必要としている人々の声が聞こえませんか。今、あなたの耳に、「ゲラサの地へ一緒に行こう」と呼びかける主イエスの招きのみ声が聞こえませんでしたか。 祈りましょう。
天の父なる神さま
主イエスは危険を承知で、弟子たちと共に向こう岸へと船を浮かべました。人は今ではなく明日でも良いではありませんか。と言うでしょう。しかし主イエスの耳には救いを必要とする者の声が聞こえるのです。
石井十次青年もまたキリストの僕として主イエスと共に、嵐に遭遇するかもしれないという危険を予測しながらも、「向こう岸に行こう」とお招きになるみ声に感動し、従って行きました。今朝、同じ招きのみ声がわたしたちの耳にも聞こえてまいります。主よ、どうかわたしたちをもあなたと共に船にお乗せ下さい。あなたと共に向こう岸へお連れ下さい。
わたしたちの救い主イエス・キリストのお名前を通してお願いします。
アーメン。