【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年1月11日

 

悔い改めの宣教

マルコによる福音書6章6b-13節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 ここは主イエス・キリストが12人の弟子たちを2人一組で伝道の旅に送り出すこと、そしてそのための注意事項を与えておられる箇所です。主イエスは弟子たちに、お弁当も旅費も着替えもなしに、ただ一本の杖とそれこそ着の身着のまま出て行け、履物は用をなさなくなったら後は裸足で旅を続けなさいと命ぜられました。それは厳しい旅を予想させる命令です。しかし日本でもそうですが、大昔、イスラエルでは旅人にはやさしく接する人が少なからずいました。聖書にもアブラハムという人は昼下がり。炎天下、3人の旅人を呼び止めて丁重にもてなしたという記事があります。また律法には農作物を全て刈り取ってはならない。10%くらいは旅人や寄留の他国人、貧しい人々の為に残しておいて上げなさいと定められています。主イエスの時代にも弟子たちを迎え入れてくれる人がいたのです。ですから遣わす主イエスも、遣わされる弟子たちも旅そのものに対する不安は全くないかのように話が続けられています。主イエスは必ず彼らを受け入れてくれる家があり、人があることを前提に、そこを旅立つ日まで、その家を活動の拠点にして伝道しなさいと言われます。

 主イエスは6組の弟子たちがこれからお世話になるお宅での生活について注意を与えます。但し、それは細々とした生活上のオリエンテーションではありません。彼らが気をつけるべき第一の事柄はその家の人たちの心を天にまします神に向けさせることであります。この家の人とその町に住む人々に、主から賜った権威をもって悪霊を追い出し、病を癒し、神の国を宣べ伝えることです。宣教の目的はあくまで人々の心を悔い改めに導くことなのです。

 伝道する、イエス・キリストの福音を宣べ伝える。聖書のこと、神のことを語る、そういう使命にキリスト者は与(あずか)っています。しかし、わたしたちは自分の立場を超えることは許されていません。すなわち奉仕するための権威は授かっていますが、相手を罵(ののし)り、相手を裁く権威までは与えられていないのです。キリスト者の使命、それは時が良くても悪くてもみ言葉を語ることです。主イエス・キリストの福音と悔い改めの必要を語り続けることです。神はかつて使徒パウロを力づけて言われました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録18:9b〜10)と。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                      2004年1月11日

 

悔い改めの宣教

マルコによる福音書6章6b-13節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

  今日はわたしたちの主が郷里伝道に区切りをつけて、周辺の村を巡回伝道された後、12弟子を2人一組ずつ伝道実習生として派遣されたというところからこの物語は始まります。その期間はどのくらいかというと、この章の30節には再び帰ってきた12弟子が、自分達の伝道の成果を報告していますから、そんなに長い期間ではなかったでしょう。ある人はせいぜい1週間程度のものではなかったかと言います。多分それくらいであろうとわたしも思います。

期間の長さはともかくとして、弟子達を派遣するにあたって主イエスが彼らに与えたご命令はなかなか厳しいものがあります。仏教でも修行僧に托鉢という訓練があります。着の身着のままで出かけて行き、街角に立ち、あるいは家々の門口に立ち、行き交う人々やその家に住む全ての人に祝福があるようにと経文を唱えます。心ある人はいくばくかの現金やお米などをそのお礼として手向けるのです。こうして修行僧はその日いただいたものをお腹に詰め込んで、とにかく飢えを凌ぎます。もちろんいつも何がしかのお布施が保証されているわけではありません。時には何日も空腹のままということもあります。

 主イエスは今弟子たちにこうした訓練をお与えになりました。お弁当も旅費も着替えもなしに、ただ一本の杖とそれこそ着の身着のまま出て行け、履物は用をなさなくなったら後は裸足で旅を続けなさいと言われるのです。しかし日本でもそうですが、大昔、イスラエルでは旅人にはやさしく接する人が少なからずいました。聖書にもアブラハムという人は昼下がりの炎天下、3人の旅人を呼び止めて丁重にもてなしたという記事があります。また律法にも農作物を全て刈り取ってはならない。10%くらいは旅人や寄留の他国人、貧しい人々のために残しておいて上げなさいと定められています。主イエスの時代にも弟子たちを迎え入れてくれる人がいたのです。ですから遣わす主イエスも、遣わされる弟子たちも旅そのものに対する不安は全くないかのように話が続けられています。主イエスは必ず彼らを受け入れてくれる家があり、人があることを前提に、そこを旅立つ日まで、その家を活動の拠点にして伝道しなさいと言われます。

 25年ほど昔のことです。日本バプテスト大阪教会の中島義和牧師の呼びかけで韓国から女性ばかりのクリスチャンが大挙してやってこられました。何でも創世記5章に出てくるアダムの系図で969歳という最高齢で天寿を全うしたメトシェラという名に因んでつけられた「メトセラ聖歌隊」の一行です。わたしたち大阪ブロックの牧師たちは伊丹空港まで彼らを出迎え、各教会が十数人づつお引き受けしてそれぞれ伝道のお手伝いを頂くことになりました。わたしも当時牧会していました北大阪キリスト教会に12名ほどの姉妹方をお預かりしましたが、小さな教会ですから、全ての方に滞在して頂くわけには行かず、2,3名の教会員にお願いして9名ぐらい分宿していただき、残り3名の方が教会で寝起きすることになりました。同じクリスチャンですが、国情の違い、文化の違い、生活習慣の違いがわかって大変楽しい数日間でした。しかし、ある教会員のお家では危うくお風呂場から火事を出しそうになったことがありました。韓国では貧富の差に開きがあり、当時日本に来ることができるような人は相当の資産家でした。彼女のお宅は床下のオンドルだけではなく、既にあの頃からセントラルヒーティングになっていて、お風呂も一人一人お湯を捨てて、次に入る人は新しくお湯をはるという習慣が身についていたので、日本に来てもその通りにしました。ところが彼女達を引き受けてくれた教会員の家はその都度お湯を捨てるようなことをしません。常にお湯を張ってコックをひねることで種火を作動させるという、当時の日本として標準家庭でした。そんなことを知らない遠来の客はお風呂が上がると、いつものやり方でさっさとお湯を抜いてしまいました。浴槽は間もなく空焚き状態になり、危うく火事になるところでした。いくらクリスチャンホームであるといっても、一日や二日ではありません。旅人が何日もお世話になるということは双方共に相当神経を遣います。

 12弟子と彼らを迎え入れた家族はそのあたりをどんな風に解決していたのか興味のあるところです。主イエスは6組の弟子たちがこれからお世話になるお宅での生活について注意を与えます。但し、それは細々とした生活上の注意ではありません。彼らが気をつけるべき第一の事柄はその家の人たちの心を天にまします神に向けさせることであります。この家の人とその町に住む人々に、主から賜った権威をもって悪霊を追い出し、病を癒し、神の国を宣べ伝えることです。宣教の目的はあくまで人々の心を悔い改めに導くことなのです。

 弟子たちにはもう一つの権威も賜っています。それは祝福と足の埃(ほこり)を払うことです。並行記事のマタイによる福音書によると、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」(マタイ10:12〜14)とあります。

 わたしはここを読んでいて特に心に残る言葉は、祝福の挨拶と足の裏の埃を払うという抗議の印です。たとえばわたしたちがある家を訪ねたとしましょう。「まあ、よくいらっしゃいました。さあ、どうぞお上がりください」と歓迎してくれたら、この家に祝福がありますようにとその時初めて心のうちに祈るのではないでしょうか。しかし主は言われます。どのような家であろうと、先ずその家の人を祝福して上げなさいと。わたしたちは相手の反応を見てから祈りますが、順序が逆でした。まず「シャローム。平和があるように」という挨拶からはじめなさい。その人に祝福があるようにと祈ってあげなさいと言われるのです。もし祝福を祈り、「平和があるように」と挨拶をしたにもかかわらず、「何しにきたか」といわんばかりに歓迎してくれず、耳を貸さないような人には彼らへの証として足の裏の埃を払い落としなさいと言われます。裁きは神が下す。相手の反応が冷たいからといって心を乱すことはないと主は言われます。それなのにわたしたちはここでも間違いを犯しやすいのです。相手の反応が冷淡であったとき、わたしたちはついその人と諍(いさか)いをしてしまいます。それをしないまでも、ほかの人にその人のことを告げ口してしまうのです。しかしそれでは主の言葉の半分しか聞いたことになりません。主は言われました。相手の反応が冷淡であったとしても、あなたがたが相手のために祈った祝福の祈り、相手に与えた平和の挨拶は決して無駄にならず、その祝福、その平和はあなた自身に返ってくると言われたのです。その人の将来のことは神にゆだね、黙って足の裏の埃を払い落とし、黙って引き下がることによってです。しかし、もしわたしたちが相手に一言いわずに気が済まないとか、誰かにその人の悪口を言わないと腹の虫がおさまらないと考えてそれを実行するなら、祝福も平和もあなたの心から消え失せてしまうであろう。それではあなたは何のためにその人を訪ねて行ったのか分からないではないかと主は言われるのです。悔い改めを勧める伝道に行って、喧嘩をしたのでは元も子もないではないかと主は言われるのです。

 伝道する、イエスを宣べ伝える。聖書のこと、神のことを語る、そういう使命にわたしたちキリスト者は与っています。しかし、わたしたちは自分の立場を超えることは許されていません。奉仕するための権威は授かっていますが、相手を罵(ののし)り、相手を裁く権威までは与えられていないのです。キリスト者の使命、それは時が良くても悪くてもみ言葉を語ることです。主を証(あかし)し続けることです。わたしたちは新しい会堂を与えられました。新しい会堂で礼拝をささげています。新しい会堂で新しいビジョンが与えられることを皆さんは祈りつつ、総務から渡されたアンケート用紙に向かっておられることでしょう。けれども教会に与えられる古くして新しいビジョンは多くはありません。いえ、ただ一つです。神はかつて使徒パウロを力づけて言われました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録18:9b〜10)と。  祈りましょう。

  

天の父なる神さま、あなたの御名をあがめ、心から讃美します。

 今朝、わたしたちは主が12名の弟子たちを伝道に遣わされた聖書の記事を読みました。そしてここでもあなたのみ言葉を学ぶ機会を得ました。感謝します。12弟子が経験したように、今日わたしたちもまた主を証し、イエス・キリストの福音を宣べ伝える時に困難を覚えます。それはいつも暖かい反応が返ってくるわけではないからです。むしろ主を証しする口をふさぐ大きな力に呑み込まれそうになることの方が多いのです。わたしたちは弱いので、そうしたとき、ついその人に恨みを抱いたり、臆病になって、語ることをやめてしまいます。やめるだけでなく、その人を裁いてしまいます。しかし、それは間違いでした。わたしたちに与えられた使命は、時が良くても悪くてもただ福音を語り、悔い改めを迫ることでした。2004年度を前にして、この仙川キリスト教会に必要なビジョンを与えてください。この町には、わたしの民が大勢いる。とあなたは語ってくださいます。どうか、あなたの民をこの教会に満ち溢れさせてください。彼らをこの教会に導く為に何が必要なのか、何が欠けているのかを、今静かに思い起こす時としてください。

イエスさまのお名前によってお願い致します。アーメン。


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