【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年2月8日

 パンくず人生

マルコによる福音書7章24-30節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝は、悪霊に苦しむわが子を救ってくださいと嘆願するギリシャ人女性の物語を通して神の御心を学びます。

 主イエスは初め、彼女を「小犬」と呼んでその願いに耳を貸そうとなさいません。彼女は自分が軽んじられ、蔑まれるべき「小犬」に等しい者であると認めます。しかし、野良犬にはなりたくないのです。この世のほかのものに望みをおくことはできません。子どもの足元で、その食卓から落ちるパンくずに期待する小犬のように、神の言葉のほんのおこぼれでもいいから頂きたいのです。聖書に、「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」(詩編84:11)という一節があります。彼女もまさにそうなのです。神に逆らうこの世の群れの中にいるよりも、たとえパンくず人生のような境遇であっても、主イエス・キリストにある交わりの一端に浴したいと、そう願ったのです。すると主イエスはこのとき初めて彼女の願いに答えてくださいました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」と。この言葉をマタイによる福音書15:28で読んでみると、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われたと書かれています。マルコは主が彼女の熱心と謙虚さに御心を動かしてくださったように受け取り、マタイは、主が彼女の誠実な信仰姿勢に御心を動かしてくださったように受け取っているようです。どちらもその通り主のお言葉です。

 わたしたちは礼拝や祈祷会で、また個人的な生活の中でも讃美歌を歌います。もともと神を讃美するとは、神を大きくするという意味があるのだそうです。わたしたちは考えてみると神の御前にずいぶんと大きな態度でいることがあります。口では、「主よ」と呼びながら、実際には僕(しもべ)のように見なしていることがあります。このような誘惑を感じるとき、主を讃美しましょう。み言葉に聴きましょう。この女性の偽りのない謙虚な姿勢に倣い、自分が神の御前に小犬であると認めましょう。そうすれば、罪に汚れた者にも注いで下さる神の恵みの高さ、深さ、広さ、長さがどれほどのものであるかが見えてくるのです。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2004年2月8日

 パンくず人生

マルコによる福音書7章24-30節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスはファリサイ派の人々を教えた後、弟子たちと共にそこを立ち去って、ティルスの地方に行き、ひそかに親しい人の家でくつろいでおられました。どうしてだれにも知られたくないと思われたのでしょうか。このことについてはマルコによる福音書に見られる編集上の特徴を掴んでおくことによって、少しは理解の助けになると思います。お気づきと思いますが、この福音書を読んで気になるのは、「すぐに」という副詞が繰り返し用いられていることです。文書量もわずか16章の記事で他の福音書に比べて圧倒的に少ないことも特徴です。主はあっという間にゴルゴタの丘で十字架に上げられておしまいになるのです。もちろん復活の事実を書くことも忘れていませんが、とにかく大急ぎでこの福音書を書き上げてしまいたいという著者の思いが伝わってきます。マルコがこの福音書を書いていた周囲の環境はとても厳しい状況にあったのかもしれません。マルコの牧会していた教会は迫害のただ中にあり、彼自身もいつ捕らえられて殉教を余儀なくされるか分からない、そういう厳しい中にあったと想像できます。ですから、自分亡き後の教会が主イエスに対する信仰をいささかもゆるがせにすることのないように、主イエス・キリストの十字架と復活の物語を書き残しておきたかったのでしょう。迫害のさなかにあるマルコの時代は十字架を目の前にしている主イエス・キリストの緊張した日々と重なって見えます。今日の箇所を読んでいても、そうした著者の思いが伝わってきます。今、主イエスが誰にも知られないように家に閉じこもっておられたのは、迫り来る十字架の時に備えて、心静かに過ごしたかったのではないでしょうか。そして残された僅かな弟子たちとの時間を大切にして、教えるべきものを教えてしまいたいという御心であったのではないでしょうか。しかし、主イエスの願いは叶いません。人々はたちまち主イエスの居場所を突き止めてしまいました。

 そんな中、一人のシリア・フェニキア生まれのギリシャ人の女性が主の足もとにひれ伏して悪霊に苦しめられている娘を助けてくださいと懇願するのでした。ところが主イエスの反応はきわめて冷淡です。「先ず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と。ここにいう「子どもたち」とはイスラエル人、「小犬」とは異邦人のことです。ご注意頂きたいのは、「小犬」の「小」は子どもの「子」ではなく、大小の「小」という漢字で訳されているということです。国語辞典をごらんになるとお分かりになると思いますが、「小」という漢字は、「小さい」、「細かい」のほかに、「軽んじる」、「蔑(さげす)む」という意味があります。愛くるしい子犬ではなく、目障りな存在として彼女はみなされているのです。主イエスはこれまですがる者を誰一人退けたことがありません。それに比べてこの取り扱いは何としたことでしょうか。日ごろの主の言動とあまりにもかけ離れた分かりにくいお言葉です。もし、今の時代の人がこんな扱いを受けたとしたらどうでしょう。きっと訴訟問題になるでしょう。ところが、この女性は怒ったり、その筋に訴えたりするようなことをしません。驚くべきことに、これほどの屈辱を受けてもなお、イエスに対して「主よ」と呼びかけています。イエス・キリストを主よ、と呼ぶことがどうして驚きかと、あなたは言われるかもしれません。聖書に出てくる敬虔な人は皆、イエスを主と呼んでいると思うのが自然です。わたしもそう思って16章からなるこのマルコによる福音書を何度か読み返してみました。その結果、わたしも驚きました。何とこの福音書の中で、イエスに対して「主よ」と呼びかけているのは、このギリシャ人の女性のほか誰もいなかったのです。しかも、マルコでは1度だけ願ったように訳されていますが、もともとのギリシャ語では「願った」という動詞が未完了時制になっていますから、何度も願い出たということになります。現にマタイによる福音書15:21〜28を見ると、彼女は2度ならず、3度も繰り返し娘の癒しを願い出ています。最初はイエスに無視されました。二度目にやっと口をきいてもらえますが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と突き放されます。それでも食い下がって願い続けたその答えが27節で、マタイによる福音書でいう3度目の信じられないほど冷たく拒絶する言葉です。しかし、彼女は無視されても、突き放されても、拒まれても、どんな扱いを受けても冷静に、謙虚に、そして熱心に願い続けるのでした。この出来事を通して、今朝、わたしたちは女性からいくつかのことを学ぶことができます。

 第一の点は、彼女は自分が軽んじられ、蔑まれるべき「小犬」に等しい者であると認めていることです。しかし、野良犬にはなりたくないのです。この世のほかのものに望みをおくことはできません。イスラエルの共同体に入れなくても、子どもの足元で、その食卓から落ちるパンくずに期待する小犬のように、主のお言葉のおこぼれだけでも与りたいのです。聖書に、「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」(詩編84:11)という一節があります。彼女もまさにそうなのです。主キリストに逆らうこの世の群れの中にいるよりも、たとえパンくず人生のような境遇であっても、主イエス・キリストにある交わりの一端に浴したいと、そう願ったのです。すると主イエス・キリストはこのとき初めて彼女の願いに答えてくださいました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」と。この言葉をマタイによる福音書15:28で読んでみると、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われたと書かれています。マルコは主が彼女の熱心と謙虚さに御心を動かしてくださったように受け取り、マタイは、主が彼女の誠実な信仰姿勢に御心を動かしてくださったように受け取っているようです。どちらもその通り主のお言葉です。

 わたしたちは礼拝や祈祷会で、また個人的な生活の中でも讃美歌を歌います。時には仕事をしながら鼻歌混じりに歌うこともあります。もともと神を讃美するとは、神を大きくするという意味があるのだそうです。神を大きくするとは変な言い方に聞こえますが、考えてみると、わたしたちは神に対してずいぶん大きな態度でいることがあります。口では「主よ」と呼びながら、実際には僕(しもべ)のように見なしていることがあります。「神とはこうあるべきだ」、「教会はこうでなければならない」と、自分勝手に神と教会のイメージを作り上げているということがあります。このような誘惑を感じるとき、わたしたちは主を讃美しましょう。み言葉に聴きましょう。この女性の偽りのない謙虚な姿勢に倣い、自分が神の御前に小犬であると認めましょう。そうすれば、わたしたちはまだパンくずほどのみ言葉の意味さえ理解していなかったことに気付きが与えられるはずです。わたしたちはもっと神の御前にへりくだる必要があることを悟ることでしょう。その時初めてこんなに罪深い者、汚れた者にも注いで下さる神の恵みの高さ、深さ、広さ、長さがどれほどのものであるかが見えてくるのです。

 わたしたちがこの女性を通して学ぶべき第二の点は、自分は神の家の主人ではなく、パンくずほどの恵みを求めるべき小犬であることを認めることです。いの一番に恵みの上席に座ることのできる資格など自分にはないことを悟ることです。ある牧師のメッセージに、「信仰は神が拒否をした(と思える)ときに成長する」という言葉があります。そのとおりだと思います。同じ言葉を繰り返すようですが、神はいつもわたしたちの要求にすぐにも答えてくださる都合の良い方と考えがちです。しかし、そうではないことがあります。時には神がそっぽを向いていると思えることがあります。そのときわたしたちは自分の中で信仰の土台に亀裂が生じているのを感じます。こんなに無理をしてまで神を信じることにどんな意味があるのかと苦しみます。しかし、このジレンマこそ、この苦しみこそ信仰が成長させられていくときなのです。イエス・キリストがあのギリシャ人の女性を無視したように、突き放したように、拒んだように、わたしたちもまたそのような扱いを受けても仕方のない者なのです。わたしたちは初めから神の国を約束された選民ではないのです。わたしたちは異邦人なのです。小犬なのです。わたしたちは等しく神の御前に罪を犯した者、罪びとなのです。恵みを受ける資格がないのに、あるかのように錯覚しているのがわたしたちなのです。それなのにふと気がつくと、神の恵みがただ一方的にわたしたちに注がれているのです。パンくずを求めるしかできない小犬であること、罪びとであることを認めた者だけが味わう恵み、それは、イエスがこんな者のために十字架に死んでくださったという事実です。 祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 今朝、わたしたちは一人のギリシャ人の女性に施してくださったあなたの深い愛と恵みを学びました。同時に、この女性の深い信仰と謙遜を学びました。思い返せば、わたしたちのこれまでの日々は何と傲慢で、自己中心であったことでしょう。口先ではあなたを主と呼んで、あなたをほめたたえながら、実際の生活ではあなたを奴隷のように自分に従わせようとしていました。都合の良いときはあなたを讃美しますが、思い通りにならないと簡単にあなたを棄て、教会を離れ、自己憐憫に陥っていました。わたしたちはそうであってはならないのです。わたしたちはもっともっと謙らなければならないのです。丸ごとのパンをかじれる子どもではなく、そのテーブルから落ちるパンくずを待つ小犬でなければならなかったのです。救いを待つわたしたちに対して、時に冷淡に見えるあなたは、わたしたちがそのような者であることを学ばせるためであったのです。今こそわたしたちはあなたを心の底から主よ、と呼ばせてください。今こそ心の底からわたしたちは小さい者、あなたがたの御国の入り口でひたすらあなたの顧みを待ち望む僕であることを悟らせてください。  私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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