【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2004年2月15日
メッセージ 高橋淑郎牧師
主イエスの恵みに満ちたみ言葉によって、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。この経験は彼にとってどれほど大きな喜びとなったことでしょう。他の人々もすっかり驚き、口を揃えて、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」と神を讃美しました。「すばらしい」とは、また「良い」とか、「美しい」という意味でも用いられています。たとえば天地創造の主である神は、創造の業を終える毎に、「良し」と満足しておられます(創世記1章)。また、「神のなされることはみなその時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う心を授けられた。」(口語訳。伝道の書3:11)とあります。
ところでこの物語は単なる昔話なのでしょうか。それならわたしたちはわざわざこの会堂に来るまでもなく、自宅で読んでおればよかったのです。この物語の主人公は自分から主イエス・キリストを求めて主の許に連れて行ってくれと周囲に頼んだのか、それとも人々が自発的にこの人を主の許に連れて行ってやろうと相談したのか、詳しいことは分かりませんが、お蔭でこの人には幸いな時となりました。今朝、あなたは自ら求めて礼拝に来られたのか、誰かに誘われたのか分かりません。もし誘われたとすれば、あなたを誘った人があなたのために祈った結果であることを心に留めてください。もし自発的であるとしても、それはあなた自身も気がつかない心の深いところで神の取り扱いを求めておられることの証です。罪で塞がれたままの耳では神の恵みのみ言葉が聞こえません。人の真心のこもった言葉も聞こえません。もつれた舌が解きほぐされなければ、神を讃美できません。人々に優しい言葉をかけることができないのです。しかし今朝、確かに主からのメッセージを通して、主の指があなたの両耳に差し入れられています。癒しの唾があなたの舌に触れられています。あなたの舌はもうもつれることはありません。「この方のなさったことはすべてすばらしい」。「主イエス・キリストはすばらしいお方だ」と、人々と一緒に主を讃美することができるでしょう。
メッセージ 高橋淑郎牧師
先週、わたしたちは主イエスがギリシャ人女性の謙遜と信仰をよしとして、その娘さんを救ってくださったことを学びました。今朝はそれに続く耳が不自由で、舌がもつれて言葉を発しにくい人を癒して下さった救いの御業を学ぶことができます。
この出来事に触れる前に、地中海沿岸の町ティルスを去って後、主がたどられた足取りを眺めてみるのも無駄ではないと思います。皆さんの手にしておられる新共同訳聖書の巻末に収められている付録の中の、「6.新約時代のパレスチナ」という頁の地図をご覧になるとお分かり頂けると思いますが、ティルスからシドンを経て、そこから東南へどのようなコースをたどったか分かりませんが、デカポリス(ギリシャ語で十の連合都市という意味)地方を通り抜けてと言いますから、ぐるりと円を描くようにしてガリラヤ湖にやってこられたことになります。E.シュヴァイツァーという人の註解書を読むと、これをドイツの地名にあてはめて、「ダルムシュタットから、フランクフルトを越えて、ネッカー河の谷を経由してマンハイムに至るようなコースだ」と説明しています。ドイツ人でないわたしたちには何のことだかさっぱり分かりません。それでこの註解書を翻訳した高橋三郎先生は日本人が理解しやすいようにと、「小田原から、東京を越え、信濃川の谷を通過して、琵琶湖に至るようなコースだ」と書いてくれています。説明されればされるほど頭の中がこんがらがってくるコースを主イエスはたどられたというわけです。しかし、このような回りくどいコースを歩かれたことには意味があります。ここに書かれている地名は確かに主イエスが用いていたアラム語が通用するところばかりですが、実際はそのほとんどの土地がギリシャの植民地であったり、少なくともギリシャ人と関係の深い土地なのです。すなわち、主イエスは敢えて異邦の土地を歩きながら、そこに住む人々に恵みの御業をお示しになったということです。
ある聖書学者が、「キリストはそのご生涯において、一冊の著書も残さず、外国にも行かず、ひたすらパレスチナの町々、村々を巡り歩かれた。しかし今や、世界中に彼の足跡を見ないところはない」と言っています。この分かり難いコースこそ、まさに聖書学者の言葉を裏付けるものであります。主イエスがこのように敢えて異邦の地を選ぶようにして巡り歩かれたことによって、異邦人はそこかしこで見聞きした主の恵みの御業を口伝に広め、世界伝道への足がかりとなったと言えるでしょう。そして、「デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやってこられた」とありますから、もしそこがガリラヤ湖西岸であれば、ユダヤ地方に戻ってこられたことになりますが、東岸であれば、デカポリス地方のはずれの町ということになります。多分まだユダヤ地方には戻っていないはずです。というのは8章を見ると、主は再びデカポリス地方を北上してトラコンに入り、ベトサイダを経由して北はずれにあるフィリポ・カイザリヤ地方を訪問なさっているからです。ガリラヤ湖東岸の地といえば、わたしたちは5章でレギオンという多くの汚れた霊に苦しめられていた男の人を、主が豚2千匹と引き換えに解放されたことを思い出します。そこはゲラサ地方でした(マタイによる福音書8:28〜34ではガダラ地方)。あの時、イェスは彼に、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われましたが、彼はその命令を忠実に実行して、「自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め」ました(5:20)。ですから、かつてはイエスを追い出した住民が、今では自分のほうから集まってきました。8:9によると、その数4千人であったと言われています。主の目にはイスラエル人も、異邦人もなく、ただ、救いを必要とする憐れみの対象以外の何者でもないのです。
31節に時間をかけすぎました。本文の学びに入りましょう。「人々は耳が聞こえず下の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるように」と願いました。手を置く、それは祝福を意味しますが、今の場合癒しの御手にすがることを意味しているのです。イエスにはその力があるという信頼の現われです。「そこで」というイエスの反応のすばやさは先週の女性に対するものと違います。なぜ違うのか、あれこれ想像をめぐらして説明することはやめます。わたしたちはみ言葉に従うのみです。ただひとつ言えるのは、あの女性の場合は彼女に謙遜さを引き出す機会とし、今の場合は彼を連れてきた人々の愛と神への信頼を見出されたからではないでしょうか。主は彼を二人だけのところに連れ出し、指を両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。このしぐさの意味についてもわたしたちはよく分かりません。はっきり分かることは、このようにして祝福の御手、癒しの御手が置かれたということです。つまり、このような手の置き方を通して、その人の信仰を呼び覚まそうとされたのです。サリバン夫人もまたヘレン・ケラーを導くには、先ず神から来る愛の心と暖かい手の接触が必要でした。イエスは、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われました。主は、5千人の群集にパンを裂き与えた時にも、また十字架前夜に催された主の晩餐式でもパンと杯を与えた時にも、先ず天を仰ぎ、父なる神との交わりを忘れませんでした。今もそうです。最も緊張を要する時に主が天を仰ぎ見られたように、わたしたちも主に倣って、人の前に立つ時、先ず神に祈ることが必要です。神に聴くことが求められるのです。熱心な祈祷なくして、大事は望めないからです。「多忙だから、多く祈る」とはM.ルターの言葉です。傾聴に値する言葉ではないでしょうか。
「エッファタ」とは、「開け」という意味だと説明されています。何が開けたのでしょうか。主イエス・キリストの恵みに満ちた御業によって、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。こうして彼は再び自由に社会生活ができるようになりました。この経験は彼にとってどれほど大きな喜びとなったことか、想像に難くありません。本人はもとより他の人々もすっかり驚き、口を揃えて、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」と神を讃美しました。「すばらしい」とは、また「良い」とか、「美しい」という意味でも用いられています。たとえば天地創造の主である神は、一日一日創造の業を終える毎に、これをチェックしながら、「良し」と満足しておられます(創世記1章)。また伝道者も被造物を代表して、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの言葉3:11)と天地創造の神を讃えています。これを口語訳による旧約聖書で読むと、「神のなされることはみなその時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う心を授けられた。」(伝道の書3:11)とあります。いつも同じことを言うので、皆さんの耳にたこができているかもしれませんが、「宗教」という日本語の本来の意味は「神との関係の回復」です。この人はただ病の癒しのための奇蹟を経験しただけではなく、耳に指を差し入れ、唾を舌に触れることによって、主は彼との関係を始めてくださったのだということを見逃してはなりません。
ところでこの物語は単なる昔話なのでしょうか。それならわたしたちはわざわざこの会堂に来るまでもなく、自宅で読んでおればよかったのです。余談になりますが、この部分の記事はほかの福音書には見られません。著者マルコはこの福音書をローマ人のために書いたと言われていますが、マルコが独自の資料に基づいてこの記事を特に書きたかった熱い思いが伝わってこないでしょうか。彼はこの福音書を通してこう言いたかったのです。「主イエス・キリストの恵みの御手はイスラエル人に対しても、異邦人に対しても隔てなく伸ばされているのだ」と。そうです。この物語の主人公は自分から主イエス・キリストを求めて主の許に連れて行ってくれと周囲に頼んだのか、それとも人々が自発的にこの人を主の許に連れて行ってやろうと相談したのか、詳しいことは分かりません。どちらであってもお蔭でこの人には幸いな時となりました。
同様に今朝、あなたは自ら求めてここに来られたのか、誰かに誘われたのか分かりません。もし誘われたとすれば、あなたを誘った人もこの聖書と同じ経験をしてほしいと祈った結果であることを心に留めてください。もし自分からここに来られたとすれば、それはあなた自身も気がつかない心の深いところで神の取り扱いを求めておられることの証です。とにかくわたしたちこそ、わたしたちの耳と口が癒される必要があるからです。罪で塞がれたままの耳では神の恵みのみ言葉が聞こえません。人の真心のこもった言葉も聞こえません。もつれた舌のように新しく造り変えられなければ、神を讃美することができません。人々に優しい言葉をかけることができないのです。しかし今朝、確かに主からのメッセージを通して、主の恵みの指があなたの両耳に差し入れられています。主の癒しの唾があなたの舌にも触れられています。もうあなたの耳には主イエス・キリストのみ言葉が届いていることでしょう。あなたの舌はもう、もつれることはありません。「この方のなさったことはすべてすばらしい」。「主イエス・キリストはすばらしいお方だ」と、ここにいる人々と一緒に主を讃美することができるでしょう。
「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ書35:5〜6)と。 祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
み言葉を感謝します。あなたは聞こえなかった人の耳を開き、もつれていた人の舌を解きほぐしてくださいました。それによってこの人は何を聞くよりも先に、あなたの恵み深いみ言葉を聴くことができました。どんなお喋りをするよりも先ず、あなたを讃美する恵まれた環境に置かれました。
しかし、わたしたちはこれまで聴くべきあなたのみ言葉を求めず、イエスさまを信じる人々の真実な祈りが聞こえないまま、あなたからも隣人からも離れて心の殻に閉じこもって日を過ごしていました。しかし、心の奥深くに孤独から解放されたいという思いに導かれて、あるいは折りよく人に誘われて礼拝に導かれました。おかげで礼拝とは何かを学ぶことができました。礼拝とは、わたしたちが何かをすることではなく、ただあなたの取り扱いを受けること、あなたがわたしたちの耳に恵みの指を差し入れ、もつれた舌の唾を触れるようにしてメッセージを与えていただける最高に恵まれた瞬間であることを学びました。主よ、あなたのなさったことはすべて、すばらしいです。この聖書の人だけでなく、わたしたちをも癒してくださったからです。
このようにあなたの恵みを頂いたわたしたちは、今日から始まる一週間の生活の中で、もはや独善的になり、人をなじったり、人を攻める心からわたしたちをお守りください。聴くべきを聞き、語るべきを語る主の僕として歩ませてください。すべてのことの中であなたを前にし、あなたを讃美することから始めさせてください。
私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。